凍えは消えず
こたつに入って丸くなる時雨はスヤスヤと寝息を立てていた。
三月も半ば、春うららな陽気だというのに、時雨は1日中こたつの中で過ごす。
「テンチョ、お茶入りました」
湯気の立つお茶がこたつの上に置かれた。そのお茶を持ってきたのはハルナだ。
「ふわぁ〜っ」
あくびをしながら、時雨が伸びをした。頭をかく時雨の表情は寝起きそのもので、口元から涎が垂れていた。
「テンチョ、口拭いてください」
「う、うん」
袖で口元を拭く時雨。その袖は厚手の布地だった。春にこたつで、厚手の長袖を着用し、汗ひとつ掻いていない。寒がりという次元を超えていた。
お茶をすする時雨の目が徐々に開かれてきた。どうやら目が覚めてきたらしい。
「ところでハルナ」
「なんですか?」
「いい加減さ、そのテンチョって呼ぶのやめてくれないかな」
「え〜っ、でもぉ、テンチョはテンチョですし」
「ボクここの居候なんだけど……」
にしては、ハルナは家事一切をし、時雨の世話をし、まるでこの家のメイドのようだ。ハルナがここの主で、時雨が居候なのに。
「テンチョはこれからもテンチョですし、居候なんかじゃないですよぉ」
「だからさぁ、テンチョじゃなくて時雨って呼んでくれないかな。別にボクはハルナの雇い主じゃないし」
「でもでも、恥ずかしいじゃないですかぁ」
「恥ずかしい?」
「時雨さん……なんて呼べませんよ!!」
顔を真っ赤にするハルナを見て、時雨の頭の中は『?』マークでいっぱいになった。
「なんでいきなり怒鳴るの?」
「だって、だって、3年以上も一緒に過ごしてて、今更……呼べませんよ!」
「わけわかんないよ」
「テンチョのばかぁ! もう出て行ってください! もう一緒に暮らせません!」
涙をいっぱいに浮かべながら、ハルナは怒っていた。
「うん、出て行くよ。今までありがとう」
お茶を飲み終えた時雨がこたつから出て立ち上がる。その格好を見た者は、やはり時雨の身体の温度調節機能を疑うだろう。時雨はロングコートを着ていた。
「寒い」
そして、まだ寒いと呟くのだ。
部屋を、家を出て行くハルナはなにも言えなかった。出て行けと言ったのは自分だが、まさか本当に出ていくなんて思わなかった。
追いかけることもできず、声もかけられず、時雨は家を出て行った。
〈裁きの門〉の内側の番人は身体の底から震え上がった。
漆黒の底なし沼が広がり、紅蓮の炎でできた雷雲の中を稲妻が奔る黒い空。
泣き叫ぶ悲痛な叫びは呪いと腐食を運び、黒い蟲どもが腐食を糧とし、その蟲を喰らう大地の裂け目から伸びる黒い触手。
かと思えば、触手はどこからか現れた赤黒い手に引き裂かれ、その直後にネチネチとした咀嚼音が聞こえてくる。
ここは異世界〈裁きの門〉の中。
上半身が女体であり、下半身が醜い蛇の化け物である、この世界に棲む異形の番人ですら、身体を振るわせる風が吹き荒れたのだ。
風は無邪気な狂気を孕んでいた。
呻き声のような音が地響きと共に大地を震え上がらせ亀裂が走る。
怨念を孕んだ風が泣き嗤いながら嵐を引き起こして黒い蟲どもを呑み込む。
この世界に棲む異形の者どもですら、決して近づこうとしない最下層の地――タルタロス。
今のこの世界を包み込む風は、そのタルタロスから吹いて来たものであった。
極寒の地タルタロスで凍ることは、死を迎えることではなく、永久の狂気を死ぬことも許されずに見せられることに他ならない。
このタルタロスには一つの櫃がある。悪夢を封じ込めた櫃。その中には一人の悪夢と、一人の戦士が封じ込められていた。
〈闇の子〉を封じ込めた〈邪櫃〉に囚われてしまった不運な戦士。その名はノイン。ワルキューレにその名を連ねる剣の使い手であった。
前回の〈光の子〉と〈闇の子〉が戦った際、ノインの犠牲を持って〈闇の子〉を〈邪櫃〉の中に封じ、このタルタロスに叩き堕としたのだった。
だが、時は過ぎ。〈闇の子〉は長い年月に闇の力を増幅させ、思念体を外の世界飛ばそうと目論んでいたのだった。そのとき、共に櫃の中で眠っていたノインの精神は〈闇の子〉に反発し、最後まで抵抗をしたが、その抵抗も虚しく〈闇の子〉の思念体は外の世界に出てしまったのだ。
そして、ノインは――?
雨の降るあの日、時雨はハルナに拾われた。あのときのことを時雨はあまり覚えてない。朦朧とする中、ハルナに拾われたのだった。
ハルナと出会う前の記憶はなにもない。新しい記憶はハルナの優しさと温かさ。彼女に拾われたのは時雨にとって幸運だったといえる。
気温は温かく、花々が彩る中、時雨は呟く。
「寒い、今日は特に冷える」
それは身体か心か?
アーケード街を出て時雨はバス停の椅子に座って空を眺めた。
空は青い、雲はない、爽やかな風が吹く。
鳥が飛んでいた。
「どこ行こう」
新しい住まいを探す間、どこかで雨風を凌がねばならない。
知り合いの家?
時雨にどれだけの知り合いがいるのか。3年間でできた知り合いがどれだけいるのか。
「困ったなぁ」
頭を悩ませつつも、時雨はバスに乗り込み、行く当てもなく座席で身体を揺られていた。
いくつもの停留所を過ぎ、質素なドレスを着た蒼眼の少女がバスに乗り込んできた。その少女は金髪の髪を揺らしながら、時雨の横に立った。
「こんにちは時雨様」
「こんにちはアリスちゃん」
時雨の前に姿を現したのは、魔導士マナの家に仕える機械人形アリスであった。
「時雨様、どうかしたしましたか?」
「うん、ううん」
「鼓動や顔色が優れないようです」
「まあね」
「わたくしのような者が不躾ですが、わたくしにできることがればなんなりとお申し付けください」
「実はさ、住む場所を探してるんだよね」
「えっ?」
機械人形が眼を丸くした。それは感情ではなく、反射的な機能であるのかもしれないが、アリスは目を丸くしたのだ。
「ハルナ様と一緒にどこかのお引越しになられるのですか?」
「違うよ、あの家を出たんだよ」
「えっ? 夫婦喧嘩ですか?」
「はぁ!?」
今度は時雨が眼を丸くする番だった。
「ボクと誰が夫婦!?」
「時雨様とハルナ様はご結婚なされていると聞いておりましたが、もしかして籍はまだ入れてなかったのですか?」
「はぁ!?」
どうやら変な噂が流れていたらしい。そのことに時雨ははじめて気が付いた。
時雨は沈黙を続け、アリスも時雨に合わせて口を開くのをやめた。次にアリスが口を開いたのは魔導街がある停留所前だった。
「それでは時雨様、御機嫌よう」
「うん」
小さな機械少女の背中を見送り、時雨はまたひとりになった。
いや、もともとひとりだったかもしれない。
ハルナと過ごした日々も、夢だったのかもしれない。
今も自分は夢を見ているのかもしれない。
時雨は意識も虚ろのままバスを降りた。
日はまだ高い。けれど、遠く西空に見える大きな雲。雨がやってくるかもしれない。
傘はない。
持って出たのは財布くらいだ。
「おなかすいた」
辺りを見回す時雨。家が立ち並んでいるが、飲食店はなさそうだ。これでは財布も意味がない。
公園が見えた。中規模な公園で遊具が充実しており、小さな池もある。
なぜか時雨は公園に誘われるように入っていった。
気配が無い。
まだこの時間ならば小さな子供たちが元気に遊んでいてもおかしくない時間だ。それなのに、子供の声がしない。いや、声はした。
「きゃーーーっ!」
小さな子供の泣き叫ぶ声。
時雨は声のした方向へ全速力で走った。
中年の女が顔を覆っている。その先には何もいない。あるのは波紋を立てる池のみ。
「なにがあったんですか?」
時雨が尋ねると女は金切り声を出した。
「子供が、私の子供が池の中に!」
先ほどの子供の叫び声がそれだろう。きっとその子供が池の中に何らかの理由で落ちたに違いない。
真後ろの池から気配がした。しかし、時雨が気づいたときには遅かった。池の中から伸ばされた触手は時雨の足首を的確に捉え、バランスを崩された時雨はそのまま池の中に引きずり込まれてしまった。
突然のことに時雨は口を開いたまま池に落とされ、口の中、肺の中に水が浸入し咳き込み、余計に口の中に水が浸入してくる。
水の中はとても寒く、凍てつく水が身体を刺す。
ロングコートが水を含み、身体を自由に動かすこともできず、コートを脱ぐこともままならない。
この池の底はどこまで続いているのだろうか?
時雨の身体は抵抗することをやめて、どこまでもどこまでも落ちていく。
奈落に落とされる気分だ。
聴覚は深いな水音で塞がれ、濁った水の中では視界も塞がれ、寒さの中で触覚も失われつつあった。
寒い、寒い、とても寒い。
いつもと変わらない寒さ。
どんなに身体を温めようと、その寒さは消えない。
しかし、魂は?
――時雨の意識は事切れた。
――このようなところで死んでもらっては困る。
公園には子供の母親の通報で駆けつけた帝都警察が2人待機していた。
現場に変わった様子はない。
すでに妖物は別の場所に逃げたのか?
いや、なにかいる。
池のそこで何かが輝いた。
泥水の中で光は拡散して煌いている。
次の瞬間、火山が噴火したように水飛沫を上げながら、謎の発光体が池の底から宙に浮かび上がった。
それは天使のようだった。
背中に輝く羽根を持ち、気品漂うユニセックスな顔立ちは人間のものとは思えない。
翼は動物の物と言うより、骨組みだけの機械チックなもので、その翼からは小さな光の玉――フレアがいくつも発生していた。
2人の帝都警察は、すぐにその顔が誰のものか気づいて、顔を見合わせた。そして、目を見開いたのだった。
池の底から幾本もの触手が槍のように飛び出した。
輝く者が静かに呟いた。
「やはり触手が本体ではないのか」
それは時雨の顔と声で、呟いたのだ。しかし、何かが違う。
自分に向かって来た触手を束にしてつかみ、時雨はそれを綱引きでもするかのように引っ張った。
触手はぴんと張り詰められ、池の底で何かが蠢き、水面が激しく波立つ。
池の中に巨大な生物がいる。
新たな触手が空に浮く時雨に襲い掛かる!
瞬時に時雨は触手を手放し、妖刀村雨を始動させた。
柄から放たれた虹色が噴水のように飛び出した。それは『時雨』が扱う時とは比べ物にならない力を発していた。
時雨が村雨を振るうと触手は爆砕し跡形も無く分解してしまった。
先端を爆砕された触手が池の中に引き返していく。
「逃がすか!」
池に向け滑空する時雨の姿はまるで獲物を狙う鷹であった。
だが、触手は池の中に没し、底で蠢いていた黒い影も消えてしまった。
逃げられてしまった。
時雨は水面の上に立ち、持っていた村雨を深く水面に突き刺した。その瞬間、突き刺された刃を中心に池が一瞬にして凍りつき、厚い氷の壁を形成した。
唖然と光景を眺めていた帝都警察2人の前に宙から降り立った時雨は、村雨を仕舞い戦いがひとまず終わったことを告げた。
「あの池はどこか別の池か湖か海か……あるいは異界に繋がっているらしい。A級危険区域として政府の管轄で封鎖をしたほうがいいだろう」
二人の帝都警察は声を出さずにうなずくだけだった。
声を出たのは時雨が背を向けて立ち去る寸前。
「あなた時雨さんですよね?」
「違う」
短く返され、沈黙が降りた。
夕方になり、曇り空から雨が降ってきた。
買い物袋を片手に傘を差すハルナは黄色い長靴で雨水を躍らせながら歩道を歩いていた。
雨の日の買い物は、ハルナにとって特別な思い出を思い起こさせる。
時雨との出逢い。
自宅の外付け階段を上る途中で、ハルナの視界に玄関前でうずくまる男の姿が見えてきた。
全身びしょ濡れで、玄関に寄りかかりながら座っているのは、間違うわけも無いまさしく時雨の姿だった。
「なにやってるんですかっ、風邪引いちゃいますよ!」
時雨の姿を確認したハルナは階段を駆け上がり、時雨に駆け寄ってしゃがみ込んだ。
「時雨さん、意識ありますか!?」
返事はなかった。
けれど、意識はあるようだ。
唇を紫にし、身体を震わせ、時雨は小声で呟いていた。
「とても寒いんだ」
「だったら早く中に入りましょ」
「どんなに身体を温めても寒いんだ……寒いんだ……寒いんだ……」
「早く中に」
「寒い……寒い……寒い……」
「時雨さん」
ハルナは買い物袋と傘を投げ出し、時雨を身体をそっと抱きしめた。
今ここで抱きしめているのに、ハルナは自分の知らないどこか遠くに時雨がいるような気がした。こんなに悲しくて寂しい気分になったのは、時雨に出逢う前以来だ。自分はなにもしてあげられないのだろうか。
怒って時雨を追い出してしまったことを後悔しながら時間を過ごした。そして、買い物から帰ると時雨が玄関先にいた。歓喜でいっぱいだった。
――それなのに。
「……時雨さん」
「……寒い……寒い……」
寒さに凍えるだけだった時雨の身体が少しだけ動く。腕をゆっくりと動かし、ハルナの背中に回る。
「寒い……寒さはいつまで経っても変わらない。身体は寒いけど、心は少し温かくなったかな」
ハルナを抱きかかえながら時雨が立ち上がった。
寒さに凍えずに済む日は訪れるのだろうか。
二人は寄り添いながら家の中に入って行ったのだった。
凍えは消えず 完