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月を詠むもの

 ――夜は暗い。

 人は炎によって夜を照らし、文明を築き上げてきた。

 しかし、この場所は、文明の手が及んでいない自然が広がっていた。

 深い森の奥に開けた湖。

 暗い水面が静かに笑っている。

 それは月だった。

 水面に映る月が満ち欠けにより、まるで不気味に笑っているように見えのだ。

 静かな湖に文明の火が灯る。しかしそれは、紅い炎ではなく、青白い人魂のような炎だった。それが幾つも幾つも水面の上に灯っていくのだ。

 最初はひとつ、次は二つ、円を描くように炎は全部で8箇所に灯った。

 湖に描かれた炎の円の中心には、ひとりの女性が闇に溶け合うように佇んでいた。

 黒いドレスを着た女性は、素足を水の中に踝まで浸けている。だが、それ以上沈むことはない。つまり、彼女は浮かんでいるのだ。

 人を水に浮かす術など、この女にすれば意図も簡単なことだろう。

 夜魔の魔女セーフィエル。

 果たして彼女はこの場所でなにをしようとしているのだろうか?

 暗示は水面に映し出されていた。

 ゆっくりと膝を曲げ、セーフィエルは水の中に両手を浸けた。波紋はまったく立たなかった。それ故に、そこに映る月もまた揺らぐことなく笑っている。そして、セーフィエルはゆっくりと映る月を救い上げ――ようとしたときだった。

「誰かしら?」

 玲瓏たるセーフィエルの声音が、静寂を破った。

 湖畔にはひとつの人影が佇んでいた。音もなく、本当に影だけがそこに佇んでいるようだった。しかしそれは、ただの影ではない証拠に言葉を発した。幼い少女の声で――。

「はじめまして、でいいかな?」

 その声は確かに少女の声なのに、どこか大人びた雰囲気を持っていた。

「はじめまして、かしらね?」

 とセーフィエルも曖昧な答えをして、静かに含み笑いをした。そして、少女の影もまたクスクスと笑っている。

「あはは、相変わらずだねキミは」

「あなたは変わらないけど、あたしは別人よ」

「アタシだって変わったよ。今じゃ『影』だもん」

「それは元からでしょう」

「それは皮肉?」

「真実よ」

「ヒドイなぁ〜」

 もしかしたら、顔を膨らませて頬を真っ赤にしているかもしれない。そんな言い草だった。

「そうかしら、わたくしの表現は的を射ていると思うけれど?」

「光と闇の関係に表も裏もないでしょ? それと同じだよ」

「あなたは闇ではないわ、『影』よ。でも、あなたは影でいることを望まない」

 少女の影が波打つように揺れた。

「うるさい! それ以上言うと怒るよ」

「怒鳴ることは怒りではないのかしら? うふふ」

 言葉も挑発的であったが、含み笑いを加えたことが、よりいっそう挑発に拍車をかけた。

 しかし、少女の影はすぐに熱を冷まし、話題を変えた。

「ところでさ、こんなところでなにしてるの?」

「神刀月詠の刃を作っているところよ」

「わお、それは大変だ」

「うふ、知っていたクセに、よく言うわね」

 真夜中の湖でセーフィエルは、神刀月詠の折れた刃を修復しようとしていたのだ。

「もちろん知っていたよ。だからこうしてわざわざ邪魔しに来たんだもん」

「邪魔なさるの?」

「アタシにとって不利益だかんね」

「でも邪魔はできないわ。――それが運命」

「運命は変えられるよ」

「だから、わたくしが存在するのよ」

「にしては、今回はあちらに肩入れし過ぎだよねぇ」

 少女の影から失笑が漏れた。

 対話をする二人の距離は離れず近づかず、一定の距離を保ち続けている。その距離はおよそ20メートル。それにもかかわらず、声を張り上げずとも言葉がよく通る。夜の静寂が成せる業か、それとも二人の成す業か。

 セーフィエルを取り巻く8つの青い炎が、天に向かって伸びた。その中でセーフィエルは月のような笑みを浮かべた。

「大事なのは、最終的な調和よ。その過程では、どちらかに傾くこともあるでしょう」

「じゃあ、こっちに傾かせないと」

 少女の影が動いた。いや、それは少女の形をしていなかった。蛇のように長く伸びた影が、セーフィエルに襲い掛かったのだ。

 巨大な口を『空けた』影が、セーフィエルを丸呑みにする。

「わたくしを誰とお思いかしら?」

 静かな宣告だった。

 セーフィエルの漆黒のドレスから触手が伸びた。それは闇だった。闇が影を喰らう。

 まるで飢えた獣のように、闇が影を喰らう喰らう喰らう。

 口を空けていた影はその先端を闇に喰われ、ゴムが元の位置に戻るように引き下がって行った。

 すでに少女の形に戻った影はクスクスと身体を震わせていた。

「あはは、やっぱ無理かも。今のアタシじゃ手も足も出ない」

「もともと実体がないのだから、手も足も出ないわね……ふふ」

「しかもね、これはアタシじゃない。ただの思念だもん」

「では、今回はおとなしく引き下がりなさい」

「そうする」

 ――と少女は間を空けて言葉を続けた。

「運命では、アタシは外に出ることになってるの?」

「ええ」

 セーフィエルは短く断言した。

 少女の影が激しく震えた。それは歓喜に打ち震えているのだった。

「ありがとう」

 言葉を残して消えた。

 影は完全にその気配を消してしまった。

 この場に静寂が返る。

 人が口を噤もうとそれは沈黙であって、静寂ではない。しかし、ここにあるのは静寂であった。

 セーフィエルは夜空を見上げた。月には雲がかかっている。星の輝きだけでは夜は心もとない。

 流れる雲の隙間から嗤う月が顔を出した。

 再び始まる儀式。

 風が止み、森もざわめくことをやめ、獣たちの咆哮も聞こえることはない。

 まるで青白い炎だけが、この場ではただひとつの生き物のようであった。

 水面に映る月に白い手が伸ばされる。やはり波紋は立たなかった。そして、セーフィエルはすくい上げたのだ。

 両手の隙間から零れる雫たちが、『月』の光を浴びて真珠のように煌く。

 セーフィエルのすく上げたものは『月』だった。彼女は水面に映る『月』をすくい出したのだ。そう、これが神刀月詠の刃となるのだ。

「以前のものよりは上手にできたかしら?」

 『以前のものよりは』と言うことは、まだ完璧とは言えないのだろう。それでもセーフィエルの笑みは満月のようであった。

「彼女の『邪魔』は見事成功したわけね」

 完璧なタイミングで取り出されるはずだった刃は、謎の『影』の登場により機を逃してしまったのだ。

 セーフィエルの耳元で過去が鮮明に再現される。

 ――運命は変えられるよ。

「だから、わたくしが存在するのよ」

 と呟いてから、彼女は思案した。

 セーフィエルの関心は、この事象が後の運命にどう絡み合うかであった。そう、完璧な刃ができなかったことが、後にどのような事象を起こすか。それを考えると彼女は、口に軽く手を当てて静かに含み笑いをした。

「……うふふ」

 夜空では白い月が嗤っていた。


 そして、セーフィエルの復元した神刀月詠は今ここにある。

 紅い花が咲き誇るこの場所で、喪服に身を包んだ雪兎は佇んでいた。その腰には神刀月詠が差してある。

 一面に咲き誇る花はヒガンバナ――別名シビトバナとも言う。

 ここは死者の国なのだろうか?

 それはわからない。ただ、ひとつ言えることは、この世ではない場所ということだ。

 そよ風が吹き、小川がせせらぐ。

「女帝様、お聞きですか?」

 雪兎は眼を閉じながら囁きながた問うた。

 煌びやかな法衣に身を包む童女――女帝が雪兎の前に姿を現した。まるで風と共に現れたように。

「アタシになんか用?」

 軽い口を叩く女帝に対して、雪兎は深く沈痛な表情で頷いた。

「ええ、お話があります。殺葵くんにも聴いてもらいたい話です」

 雪兎は考えていた。運命のときが来たのではないかと、彼はこの手に月詠が戻ったときから考えていた。そして、決意したのだ。

「ここを出ようと思います」

 それが雪兎の出した答えだった。

 微動だにしない殺葵は雪兎の声を通り過ぎる風のように受け、女帝は深い息を吐いて応じた。

「近々キミがそんなことを言い出すんじゃないかなって思ってたよ」

「ですが、運命はそのように動いてしまいましたから」

「月詠が復元されて、雪ちゃんの手元に戻ったから?」

「それもあります」

「妹に逢ってしまったから?」

「それもないとは言えません」

「キミは正直者だねぇ〜」

 いたいけに笑う童女を前にして、雪兎は少し居た堪れなかった。

 月詠を手渡されたときは、まだ外に出ようとは思わなかった。けれど、月詠を渡されてから、決断を出すまでに、雪兎の心は揺れ動いてしまったのだ。妹との再会によって……。

 小さな童女は雪兎を上目遣いで見つめ、朱唇を人差し指でトントンと叩きながらしゃべった。

「妹を想うことは悪いことじゃないよ。それに確かに運命のときは満ちたね」

 少し真剣な顔つきを童女から、雪兎の視線は滑るようにして殺葵を見つめていた。

 すぐに殺葵から女帝に視線を戻した雪兎の表情は、少し冬色が差していた。

「このような事態が起こることを予見し、あなたは手を打たれていたのですね」

「まあね」

 女帝は短く応じた。

 かつてここを訪れた女は言った。

 ――代わりの楔を用意して、あなたに自由が与えられるとしてもかしら?

 そのとき、雪兎はその申し出を断った。

 それは雪兎が『番人』としての役目を担ってしたからである。

 しかし――。

「それが勅命ならば、私は賜らなくてはならない」

 この発言の主を、雪兎と女帝は見た。それは沈黙を続けていた殺葵であった。

「私がまだ我が君の僕であるならばの話だが」

 と殺葵は付け加えた。

 クスクスとどこからか笑いが漏れた。笑いの主は一目瞭然だった。口に手を当てているのは幼き女帝だ。

「アタシはサッちゃんを解任した覚えはないよ。君はしーくんに比べて硬いよ」

「私は我が君を裏切りました」

「変えられない過去の罪は、変えられる未来で贖って欲しいな」

 幼き童女の足元に、長身の殺葵が跪いた。

「御意のままに」

 風が吹き、紅い花が咲き誇る花畑がざわめく。

 その中で、春風駘蕩の雪兎は鞘から刀をゆるりと抜いた。

「姫を守るのは騎士と決まっています。僕がここを守るより、殺葵くんが守ったほうが相応しいでしょう。だから、ここは殺葵くんに任せます」

 殺葵が深く頷いたのを見て、雪兎はくうを突いた。

「だから、僕は行かせていただきます」

 空を突いた神刀月詠の切っ先は消失していた。

 柄を持つ手に力がこもる。

 突き刺さられた刀は一文字を描き、空間に一筋の傷をつくった。

「向こうに行ったら、『影の眠り姫』を探します」

 やがて傷は楕円状に広がり、人ひとりが通れるほどの大きさになった。その中に入っていこうといていた雪兎の脚がふいに止まる。

「そうだ、あちらに行ったら永遠の若さは保てないね。それはやだなぁ〜」

 愚痴る雪兎の背中を誰かが蹴飛ばした。

「さっさと行ってらっしゃ〜い!」

 叱咤を背中で受けた雪兎は、裂け目の中に頭から突っ込んだ。そして、彼の上げたあられもない声が遠ざかっていく。

 数年ぶりに踏む大地。

 帝都エデンは雪兎を受け入れるのだろうか?


 静かな夜。

 静かな森。

 静かな湖。

 辺りは闇であった。

 今宵は新月。この魔女がもっとも好む朔夜であった。

「うふふ……来たわね」

 夢幻郷から使者が訪れたことを多くの者が感知した。だが、この街でいち早く気づいたのは、セーフィエルであった。彼女は全身で神刀月詠の気配を感じたのだ。

 あの刀がこの夜に現れ出たということは、あの男も世界に出でたに違いない。

「やはり、妹が決めてかしらね」

 神刀月詠をつくり上げたセーフィエルは、その足で雪兎の元へ向かった。そこで月読を渡すことはできたが、雪兎は外に出ることを拒んだ。だが、それはセーフィエルの思慮の範囲内であったのだ。そこでセーフィエルは運命のカードを切った。

 効果は覿面であった。なにせ、命と雪兎が再会を果たしてから、1日しか経っていないのだから。

 全ては急速に動いている。運命の歯車が激しく回っているのだ。

 舞台はこの帝都エデン。

 果たしてセーフィエルはどのような劇を演出しようとしているのだろうか?

 それはまだ誰にもわからない――。


 月を詠むもの 完

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