魔剣士(1)
早朝の帝都は気象調査を始めてから史上2番目に濃い霧に見舞われ、朝早くから交通整備が帝都警察によって行われていた。
常葉商店街のその先にある、1000年以上の古き歴史を持つ由緒正しい神威神社。帝都の重要文化財にも指定されている神社だ。
神威神社の境内も濃い霧に包まれ、その中に溶けるようにしてこの神社の美人神主の命が静かに佇んでいた。
しばらくして、白い世界に黒衣を纏った眠気眼の時雨が大きな欠伸をしながら現れた。帝都の天使と呼ばれる彼は朝に弱かった。
「ふぁ〜、おはよう命。大事な話って何?」
「相も変わらず時雨は朝に弱いのかえ? それはまあよいとして、時雨も気づいておるであろう、3日前からこの帝都に起きている不穏な空気に?」
命の言う不穏な空気とは何か?
この3日の間に帝都で起きた事件と言えば、連続した局地型地震の発生が上げられるだろう。この原因は帝都地下巨大下水道に棲む大海蛇リヴァイアサンが暴れたためであると推測されているが、それが原因とは考えられない地震も起きていた。
この神威神社も地震の直撃を受け御神木だけが倒れるという異常事態が発生していた。神威神社地下には大下水道は通っておらず、リヴァイアサンが起こした地震ではない。調査団が昨日大勢押し寄せたが、地震の原因は結局わからなかった。
時雨は未だ夢うつつで、重いまぶたは今にも閉じてしまいそうだった。
「今のボクは思考能力に欠けるから、話の結論だけ言ってくれるかな?」
「あそこにある御神木が倒れた元凶の駆除を頼む」
命ははっきりと『元凶の駆除』という言葉を使った。つまりそれは、御神木が倒れた地震は自然発生のものではなく、何者かの仕業であると命は確信しているのだ。
眠そうだった時雨のまぶたが少しだけ上げられた。
「つまり、それは『依頼』だよね」
「そうじゃ、料金は規定の2割増でどうかえ?」
「その話乗った。じゃ、ボクは帰る」
用件を済ませて時雨はそそくさと歩いていってしまった。その後姿を見て命は、
「あ奴に頼んで良かったものかのお……」
朝に弱い帝都の天使だが、そのトラブルシューターとしての実力は帝都一と言われている。だが、普段の時雨はのほほ〜んとしていて、さして喧嘩が強そうにも、運動神経が良さそうにも見えない。ただひとつ良く見えるのは『顔』くらいなものだった。
神威神社から出た時雨は家に帰るべく足早に歩いていた。
霧はより一層濃くなり、不気味さを増している。もうすでに、5m先などは全く見ることができない。だが、時雨はその霧の先に何者かの気配を感じた。
殺気に満ちた誰かががすぐそこにいる。時雨の身体に突き刺さるような殺気が押し寄せてくる。その殺気は確実に時雨に向けられたものだった。
人影が時雨のすぐ横を通り抜けた。横を通り抜ける男の顔は美しく中性的な顔――それは時雨の雰囲気と酷似していた。そして、そいつは時雨の耳元で何かを呟き霧の中に消えた。
謎の男が消えるまで全く動くことができなかった時雨。普段見せない恐ろしい表情をした時雨がそこに立っていた。そう、すれ違う寸前に耳元で囁かれた言葉――それが時雨の胸に突き刺さった。
喪失されていた時雨の過去の記憶の一部が蘇った。あいつの名は殺葵。だが、そいつが誰なのか、時雨には思い出せないでいた。
霧に紛れて血の香が時雨の鼻に届いた。大量の血だ。
前の見えない霧の中を己の感覚を研ぎ澄まし、時雨は前に進んだ。血の香のする方角へ。
「警察官か……可哀想にね」
大量の血を地面に垂れ流しながら横たわる警官の死体。それも身体を二つに割られている死体だ。
しゃがみ込んだ時雨は傷口をまじまじと見つめる。普通のものなら吐き気を催してしまいそうな死体だが、時雨は無表情無感情で死体を見つめている。
滑らかな切断面は刃物によるものに違いない。時雨にはその凶器がなんであるか、誰がその犯人なのか、すでにわかっていた。
この警官は朝っぱらから刀を持ってうろついていた『あいつ』に職務質問をしようとして斬られたのだ。
時雨は少し考えた後に警察に連絡することにした。これは一般人の取るべき行動だが、時雨を一般人と言っていいものか、それは疑問である。
商店街内にある交番に時雨は足を運んだ。あの警官はここに勤務している警官だということを時雨は知っている。
交番には人の気配はなかった。誰もいないのは明白だ。
「いつもは二人いるのになぁ」
仕方なく時雨は交番の電話を借りて警察に電話をすることにした。が、そんな時雨の後方から誰かが慌てたようすで声をかけてきた。
「お、おまわりさん、ひ、ひとが」
「あの、ボクはおまわりさんじゃないんだけど……」
時雨の視線の先に立っているのは中年のサラリーマン風の男性少し酒の匂いがすることから、朝まで飲んでいたことが伺える。
最初はふらついて交番に駆け込んで来た男だが、そこにいたのが警官ではなく時雨だということに気がつき、目を大きく開けて酔いを覚ました。
「あ、あんたは!」
「今、ここの人出払ってていないんです、代わりにボクが聞いて伝えましょうか?」
「ああ、あんただったら……」
「では、お話を」
近くにあった椅子を指差し、時雨は男を座らせて落ち着かせることにした。
話し出した酔っ払いはすでにただの中年サラリーマンに戻っており、口調もしっかりしていた。
「あれは、ほんの数分前のことだったんだが、人がいきなり消えちまったんだ」
「よくわからないです、もっと詳しくお願いします」
男の説明はあまりにも簡潔過ぎる内容のない話だったので時雨は頭を抱えてしまった。時雨は悩んだ表情も絵になる。
男は息を呑み、もう一度頭を落ち着かせて、ゆっくりと話しはじめた。
「俺が路上で倒れこんでたら、二人組の白衣を着た男が来て……」
時雨の眉が少し上がった。そして、時雨は話を理解し、それに関心を持った。
「白衣の? ……あのぉ〜、特徴をもっと詳しく言ってもらえませんか?」
「遠くからでよくはわからなかったが、ひとりは長い黒髪の奴でもうひとりは不気味な仮面を顔につけてやがった」
「それでその二人がどうしたんですか?」
「それがよぉ、いきなり俺の目の前で消えちまったんだ、まるで空間に吸い込まれるようにスーっとよぉ、本当だぜ信じてくれよ」
先ほどまで酔っていた男の戯言かも知れない。しかし、時雨にはこの話が真実の話であると確信があった。時雨の脳裏に浮かんだ名――紅葉と蜿
「信じます、たぶんその二人はボクの知り合いですから……」
「じゃあ、俺は家に帰んねぇとカミさんに怒られんで帰るわ」
「しっかり、伝えときます」
中年男は足早に交番を後にしていった。それをちゃんと見届けてから時雨はこう呟いた。
「はぁ……ここの人が生きてればだけどね」
時雨はため息とともに肩を落とした。そして、再び電話の受話器に手をかける。
「あのぉ〜、もしもし、常葉商店街で警官が死んでます」
ガチャっと時雨はすぐさま受話器を置いた。今ので警察には電話の発信場所もわかるだろうし、トラブルシューターとしての時雨の声は警察署のライブラリーに保存されていて、今の少しの声で身元が判明しているに違いないが、それでも時雨は余計なことを言うのが嫌で電話をすばやく切った。
仕事以外の事件には巻き込まれたくない。だが、時雨にはわかっていた。この事件が自分にかかわってくることを――。
自宅に帰宅すると、ハルナが時雨を迎えてくれた。
「テンチョ、朝食できてますよぉ」
「うん、ありがと」
このハルナという女性は時雨が自宅の1階で経営している雑貨店で働く定員兼時雨の身の回りの世話役である。年のころは10代後半から20代前半らしいが、見た目はもっと若く見える。眼鏡とツインテール、そして、メイド服常時着用の可愛らしい女の子だ。
ダイニングからハムの焼けるいい匂いがしてくる。今朝の朝食はハムエッグとトーストだった。
ハルナはテーブルに乗せられたトーストを掴み、イチゴジャムをつけて時雨に手渡す。至れり尽くされだが、この二人は断じて付き合ってはいない。この二人には特別な事情があるのだ。
「テンチョ、そろそろ新しい店員を増やそうと思うんですけどぉ、どうですかぁ〜?」
「別にハルナちゃんの好きにすればいいのに」
「だって、テンチョはテンチョなんですからぁ」
時雨は急に沈黙してお茶を飲み干した。トーストにお茶という取り合わせは少し変なように思われるかもしれないが、時雨はお茶好きで飲み物といったらお茶だった。
黙りこんでしまった時雨の顔をハルナは綺麗に澄んだ大きな瞳で覗き込んだ。
「テンチョ、どうしたんですか?」
「……いや、あのさ、そろそろ、テンチョ交代しない?」
「ダメですよぉ、交換条件なんですから」
「……はぁ」
年老いた老人のように時雨は大きなため息をついた。時雨が雑貨店の店長をやっている理由には深い意味がありそうなのだが、この話はすぐに止められ他の話題に移ってしまった。
TVリモコンを手にとって、時雨は電源ボタンを入れた。
高画質の液晶ディスプレーに女性キャスターの顔が映し出された。地上波の番組はこの時間、ニュース番組が多い。
TVをつけたが時雨は特に見たい番組があるわけでもない。そこでハルナはTVリモコンを時雨の手から取り上げ、チャンネルを回す。ハルナが見たいのは子供向け番組だ。
朝放送されている子供向け番組でハルナが一番おもしろいと思っているのは、ローカルTV局である『TVT(テレビ帝都)』で放映中の昔のアニメの再放送である。
TVの画面には『うりゅっちゅ』と呼ばれる奇怪な容姿をしたキャラクターが描かれている。このうりゅっちゅの容姿はカバに白い天使の羽を生やしたような生物で、時雨はちっとも可愛いと思わないが、このうりゅっちゅは幼児に大変な人気がある。
うりゅっちゅは画面上で『うりゅっちゅ!』と鳴いているだけである。それ以外の行動はしない。だが、そんな映像をハルナは食い入るように見ている。
うりゅっちゅの人気の秘密は催眠効果によるものだという。映像のBGMや『うりゅっちゅ!』という鳴き声のテンポから強弱、至るところに催眠術が使われている。そして、極めつけは、画面をコマ送りにするとわかるのだが、ある一定の間隔でうりゅっちゅの関連商品の広告が画面に混じっているのだ。人は知らない間に商品の情報を脳に焼き付けられているというわけだ。
うりゅっちゅの映像が突然消え、男性の顔が映し出された。それは臨時ニュースだった。
《臨時速報をお伝えします。今朝未明、1000年以上もの歴史を誇り、帝都の重要文化財に指定されています神威神社が何者かによって破壊されました。この事件による――》 ニュースを聞いていた時雨の顔が蒼ざめた。
「さっき行ったばっかりだよ」
「ニュースで命さんが重症だって言ってますよ! どうしましょう!?」
「あいつか……」
あいつ――それは殺葵のことを指していた。これは時雨の大きな誤算であった。まさか、神威神社が襲われるとは思っても見なかった。
霧の中、殺葵が時雨の前に現れたこと――その理由まではわからないが、だが、まさかあの後に神威神社が襲われようとは。
殺葵――それは時雨の古い友人の名。ある日忽然と姿を消してしまった殺葵の名を時雨は今日まで忘却していた。
すれ違う寸前、時雨の耳元で殺葵が囁いた言葉、それは『私は還ってみせる』の一言のみであった。その言葉は時雨の心を戦慄させるに十分な内容だった。だが、自分はなぜその言葉に強く反応してしまったのか、重要な部分を時雨は思い出せずにいた。
今ここにいる時雨。その過去を知るものは誰もない。本人自身もだ。
時雨の記憶は帝都でハルナと出逢ったところからはじまっている。それ以前の記憶が時雨には全くないのだ。だから、殺葵があの後、神威神社を襲うとは思いもしなかったのだ。だが、神威神社を破壊したのが殺葵だということを時雨は本能的に悟った。
時雨の過去の記憶の鍵を握る人物に、自称時雨の妹と名乗る夏凛という人物がいるが、本当の妹なのかはわかっていない。その夏凛が言うには、長い間消息を絶っていた兄が突如帝都に帰って来たのだと語る。
夏凛に昔話を散々聞かされた時雨であるが、それでも記憶は戻らなかった。だが、時雨は殺葵と出逢い、何かを思い出そうとしていた。まるでそれは殺葵が時雨の記憶を解く唯一の鍵だったように時雨の記憶を呼び覚ましつつある。
普段あまり見せない厳しい形相をした時雨は、朝食を摂り終らぬまま外に駆け出して行った。向かう場所は神威神社だ。