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マドモワゼル・ブラック  作者: 関ひだり
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第四話

 朝7時の目覚まし時計のベルで、夢の世界から現実へと引き戻された。夕暮れの図書館で誰かと一緒に本を読む夢だった気がする。誰と一緒だったかは思い出せない。

 机の上には、昨日借りてきた本が3冊載っていた。それぞれジャンルの全く異なるものだ。読書は好きだけれど、作家や時代背景などについては詳しく知ろうとしたことがなかった。しかしこれからは少しずつ知見を広げていこうと決意し、書架からほぼ無作為に選び取ったのだ。

 「焦らなくても良いんだ。少しずつ、ゆっくり進めば良い」

 「大丈夫。僕も一緒に頑張るから」

 高校に入学して、隣の席で知り合った彼の言葉。昨日の帰り道で彼が口にした一言は、現国の庭桜先生の、生徒の頭上を素通りしてしまいそうな指導計画という名の演説よりも何倍も心に響いた。そこで、思わず泣き出してしまったことを思い出し、誰もいない部屋で一人で赤面する。男の子に涙を見せてしまった。それも、知り合ってまだ3日しか経っていない男の子に。

 彼の顔を思い浮かべた。私にとって彼は特別な存在だった。高校に入って初めてまともに会話した隣の席の生徒。教室内の膠着状態を打破した勇気ある男の子。そして――私の“思考”が見える人。

 私の“思考”。実のところ、自分自身もその正体を掴めないでいた。物心がついた頃から、そこら中に不思議な文字や記号(後にそれらが数列や方程式であることを知った)が溢れていたし、気付いた時には自分でそれらを作り出して遊ぶこともできていた。例えば、手のひらサイズの球をいくつか作ってお手玉としたり、球以外にも様々な立体を構成して積み木遊びをしたり。周りの大人たちは、私が遊ぶ様子を見て不思議そうな顔をしていた(今思えば、彼らには何も見えておらず、私が一人で手を動かしているだけだと考えていたのだろう)。それでも、私は楽しく生活していた。毎日色々な発見があり、たくさんのことを知り、刺激的だった。

 そして、小学生だったある日、私はついに知りたくなかったことまで知ってしまった。

 すべてを失ってしまった。



 嫌な思い出に到達しそうだったので、頭を振って無理矢理現実に戻ってきた。時計を見ると、なんと30分も過ぎていた。少し慌ててベッドから滑り降りた。

 支度をしながら、もう一度彼の顔を思い浮かべた。生まれて初めて出会った、私の“思考”が見える人。どうして見えるのだろう。そんなの僕が知りたいよ、彼はそう答えた。それはそうだ。私にだって、この力が何なのか分かっていないのだから。

 でも、もしかしたら。ぼんやりとした一つの考えが浮上した。完全な解決には至らないかもしれないけれど、何かの糸口になるかもしれない。彼ならば――

 ようやく準備が整って、鏡の前に立つ。映し出された暗闇の中で、白い制服を着た少女がくるりと回った。それから、彼女は頭の中で()()()()()()()()()()――消えた。



 ***



 時計を見ると、朝7時半を少し過ぎたところだった。井上は跳ね起きた。確か目覚ましのベルは余裕を持って6時半にセットしたはずだが、スイッチはオフになっていた。幸い、急げば遅刻はしない時刻だ。ドタバタと支度を始める。

 昨晩、闇蜜のことを考えていて寝付けなかった。初めて見た彼女の泣き顔。これは、火曜日に吉田と校内探索をした時に脳裏を過ったものとは異なっていた。

 「じゃあ、あの表情は何なのだろうか?」

 やはり以前に二人は出会っていたのだろうか。しかし、井上も闇蜜もお互いのことを全く覚えていないというのも不自然だ。

 あるいは、彼女はもしかしたら忘れたふりをしているだけなのかもしれない。

 ――そう。君は本当に忘れていたんだね。残念だよ。

 寂しそうに告げる闇蜜の声が頭の中で響いた。もちろん、実際に言われたわけではなく、井上の想像だ。ただ、悲しく、突き放すような彼女の表情を考えるだけで心が痛んだ。せめて本物の彼女にはそんな顔をされたくないなと人知れず思った。それから、変な気分になった。最近割とこの気分になる頻度が高くなってきた――僕のこの、闇蜜に対する気持ちはいったい何なのだろう。

 支度を終え、少し駆け足気味で登校体勢に入った。いつものように、闇蜜とはいつもの公園で合流した。今朝の彼女は地上で立って待っていたようだ。井上を見つけると、彼女は手を振った。井上は遠慮がちに手を振り返した。

 「おはよう、井上くん」

 「おはよう」

 「今朝はお寝坊さん? 寝癖がちょっとついてる」

 井上は、どうして夜更かしして寝坊したかは当然言えないので、指摘された箇所の髪を触って誤魔化した。

 「そう言う黒田さんも、今日は木の上じゃないんだね」

 「私は昨晩、借りてきた本を読んでいたの。初めて読む感じの文章だけれど、なかなか楽しませてもらってるところ」

 鞄から一冊の文庫本を取り出した。井上が読んだことのない知らない作家が著した、ファンタジー作品らしかった。

 「読み始めたら思いのほか入り込んじゃって、気付いたらとっくに日付を越えちゃってたの。だから、ほんのちょっと寝不足」

 授業中にまた眠っちゃったらごめんね、と彼女は胸の前で手を合わせた。井上は、普段とあまり変わらない彼女を見てほっとした。その後もいつもと同じように他愛のない会話をして、学校に到着した。



 ***



 化学科の広士(ひろし)先生は、灰色の背広をきっちり着込んだ、見るからに厳格・頑固そうな年配の男性だった。そして、不機嫌をそのまま顔に貼り付けたような仏頂面で、教壇から生徒を眺めていた(井上は2回も目が合ってしまい、慌てて目を逸らした)。

 授業開始のチャイムが鳴ったが、広士先生はしばらくの間微動だにせず突っ立っていたが、やがて思い出したように教科書を開き、音読を始めた。お経のような平坦な口調で、昼休み後でもないのに、開始10分で机の上に崩れる生徒が出始めたくらいだ。しかし、先生はそんな生徒には目もくれず、相変わらず不機嫌そうな声で坦々と授業を進めた。

 井上は、迫り来る睡魔と必死に闘っていた。昨晩の夜更かしも祟っているらしい。しかし、甘く囁く悪魔の言うことには耳を貸すまいと、一生懸命に教科書にかじりついて、広士先生の読経に追いついていた。ふと隣を見ると、意外なことに闇蜜は起きていて、教科書を読んでいた。彼女の頭の周りには、色とりどりの球体がお互いにぶつかり合いながら、時にくっつき、時に弾き合っていた。群れを成して飛び回っているものもいる。それから少しして、井上は気付いた。――彼女はやはり先生の話を聴いているようで聴いていなかったのだ。開いている教科書のページがずっと後のものだ。しかも、読んでいる彼女の態度から察するに、初めて接する内容がちんぷんかんぷんで戸惑っている、というよりもむしろ、ああ、こういうのもありましたね、と軽く読み流しているようで、高校化学初心者の井上は少しだけ羨ましく思った。

 広士先生は依然として呪文を唱えていた。

 「……であるからして、この図にある通り、……」

 「今の、先生が読んだ箇所、わかった? 僕にはさっぱりだよ」

 井上が小声で闇蜜に訊ねた。すると彼女は自分の教科書と周辺の球体はそのままにして、どこ、と井上の教科書を覗き込んだ。井上が件の部分を指し示すと、

 「簡単だよ。この図が言っているのは……」

 彼女は教科書に載っている図にそっくりな絵を空中に描いて、実際に動かしながら解説し始めた。

 「……ということ。おーけー?」

 「なるほど。ということは、ここは――」

 「そこ、君たち」

 広士先生の不機嫌な叱責が飛んできた。いつの間にか二人の話し声が大きくなっていたのかもしれない。教室中が二人の方を向いていた。

 「私語を慎みなさい。それとも、私の代わりに話したいことがあるのですか。ならば、前に出て授業しなさい」

 井上も闇蜜も二人ともフリーズして何も言わないので、先生は教室を睥睨してから続けた。

 「私の授業を聴くか聴かないかは、君たちの自由です。ただし、他の生徒の邪魔はしないように。特に、そこの男子生徒みたいに。全て見えていますからね」

 それから広士先生は教科書の音読会を再開した。教室内はやはり静寂そのものだったが、誰ひとりとして机に伏している者はいなかった。



 ***



 「怒られちゃったね」

 授業終わりの休み時間。教科書を鞄にしまいながら、闇蜜が話しかけてきた。

 「ごめんね、最初に質問したのは僕だし、黒田さんはそれに答えてくれていただけだから、叱られるべきは僕だけで良かったのに」

 「気にしないで。分からないところがあったら、解決したくなるのは当然だよ」

 私もあからさまにお喋りしちゃってたからね、と苦笑する。彼女は優しい。

 「結果的に、それまで寝ていて授業を聴いていなかった生徒も、その後はきちんと起きることになったじゃない」

 「そうだぞ。何かを遂げるには、何かを犠牲にしなければならないからな」

 小石が大仰に頷く。格言めいた台詞はどこか間違って聞こえたし、この状況を喩えるには些かずれていたし、しかも彼は授業開始後真っ先に寝始めた生徒のうちのひとりだったと思う。

 「でも、先生も先生だよね。あんな風に、教科書をただ読み上げるだけの授業じゃ、わざわざ聴く必要があるのかって思ってしまうし、退屈な授業を提供している側にも責任が少なからずあると思うな」

 考え込むようにして呟いたのは宇治だ。

 「それくらいだったら、自分でもできそうじゃないか」

 「おれは自信がないなあ、自分で教科書を読んで自習するのは。妙な余裕ができちゃって、ギリギリまで勉強しなさそう」

 要するに、教科書を読むだけでも、授業してくれるだけマシじゃんってこと、と小石が言った。続けて、

 「まあ、おれは授業中は寝てたわけだけど」

 と付け足して自分で笑った。

 井上は、授業中に生じた疑問を解消しようとしている途中で先生に中断されてしまった(尤も、この表現は不適切で、本当は井上が先生の授業を中断した)ので、結局未解決のものが残ってしまっていた。闇蜜に引き続き訊けばきっとこころよく教えてくれるだろうが、授業中のこともあり、尋ねづらくて、自分で先生に質問しようと考えた。

 「昼休みに、広士先生のところに訊きに行こうかな」

 「僕もついて行って良いかい。僕も訊きたいことがあるんだ」

 宇治が乗ってきた。こうして、二人は昼食後に化学科研究室に向かうことになった。

 しかし、昼休みに二人が実際に研究室に到着すると、広士先生は不在だった。仕方なく二人は教室に戻ることにした。

 「放課後にまた改めて訪ねようかと思う」

 「ごめん、放課後は寄らなくてはいけないところがあるから、一緒に行けないんだ」

 宇治はすまなそうに告げてきた。

 「僕はまた後日先生のところに行くよ」

 「そっか、わかった」



 放課後。ホームルームを終え、教室中がいきなり騒がしくなったとき、井上は闇蜜にあらかじめ先生のもとへ行くことを知らせてあったので、

 「えっと、じゃあ、行ってくるね」

 先に帰ってて、と言い残し、ひとり化学科研究室の前に再び立った。謎の緊張感があった。二、三度深呼吸し、ドアを3回ノックした。どうぞ、と、いかにも面倒くさそうな不機嫌な返事が返ってきた。失礼します、と井上は引き戸を開けた。

 研究室内には広士先生一人だけだった。井上を見上げた顔は、授業中と同じ仏頂面だった。

 「何ですか」

 「今日は先生に質問があって来ました。よろしいでしょうか」

 「質問?」

 井上は持ってきた教科書を掲げてみせた。

 「……よろしい」

 広士先生は、案外親切に教えてくれた。仮にも教師であるから当たり前かもしれないが、普段の機嫌の悪そうな表情や声から想像するような風ではなかった。

 「君、名前は」

 「井上と申します」

 「井上くん。君、授業中にあれは良くないよ。隣の席の子に話しかけちゃあ」

 「はい。でもあれは――」

 「わからないことがあったから相談していた」

 「あ……はい、そうです」

 「いや、実は知っていたのだよ。言っただろう、全て見えていると」

 ばつが悪い様子で、井上は視線を下にやった。

 「わからないことがあったから相談した。これ自体は悪いことではないし、むしろ良いことだと思う。実際にこうして君は私のところに来て質問しているわけだ。しかしな、真面目に授業を受けている生徒の邪魔をしちゃいかん」

 闇蜜の態度は、少なくともこの先生には真面目だと受け取られたらしい。もし先生が本当に「全て」見たなら、お喋りを注意するどころではなかっただろう。もちろん、だからと言って私語が許されるわけではないということもわかっているけれど。

 「申し訳ありませんでした」

 井上は頭を下げた。分かっているならよろしい、と広士先生は小さく呟いた。

 「それから、これは興味本位で訊かせてもらうが」

 「はい」

 「井上くん、君は彼女に興味があるのかね」

 「はい?」

 不意打ちだった。まさか先生からこの質問が発射されるとは思ってもいなかった。

 「何もないですよ。彼女とは席がたまたま隣で、家もたまたま近所だというだけです。だから、僕が彼女に興味があるかどうかというのは、」

 「冗談ですよ」

 慌てる僕を眺め、広士先生は、井上に初めて笑顔を見せた。笑顔といっても、あからさまな破顔ではなく、初孫が独りで立って歩けるようになって、それを「見て見て」と披露しにくる初孫を見るような微笑だった。

 「青春は、今しかできないことですからね。謳歌するとよろしい」

 「はい」

 「ただし、学生の本分は学業であることは忘れないように」

 「はい」

 ありがとうございました、失礼します、と井上は研究室を後にした。

 


 ***



 廊下をひとりとぼとぼ歩く。井上は広士先生の言葉を反芻する。

 ――彼女に興味があるのかね。

 不思議な気分だった。自分では全く意識していないのに、周囲の人達にはそのように見えるらしかった。

 闇蜜はとても魅力的な女性だ。それは井上も知っているし、実際にそう思っている。しかし、自分が本当に彼女のことを好きかどうかは自信がなかった。もし仮に恋愛対象として見ているとして、その気持ちに誠実に向き合うことができるのか、不安だった。あるいは、これが恋愛じゃないのなら、……さて、いったい何なのだろう?

 混乱してきたので、一人問答を中断した。



 教室に戻ると、掃除終わりの生徒が何人かまだ残っていた程度で、闇蜜の姿はなかった。少しがっかりしたが、先に帰ってて、と言ったのは井上自身だったのを思い出した。鞄を拾い上げ、教科書を放り込んで早々に立ち去る。部屋を出る時に、だんだん馴染んできたクラスメイトが井上に別れの挨拶を投げかけてきたので、軽く返した。

 昇降口で靴を履き替え、夕日の下に出る。再び彼女のことを考える。

 闇蜜は、魅力的であるだけでなく、不思議な女性だ。特に、彼女の“思考”。どういうわけか、僕にはそれを見ることができる。月曜日の数学の時間に始まり、今朝の化学の授業中にも、彼女は頭の中の現象を目の前に展開していた。授業中以外にも、ことあるごとに彼女の頭の周囲にはいろいろな記号や計算式が浮かんでは消えていた。この能力自体が相当な謎だし、それに加えて、井上がそれを見ることができ、それ以外の人が見ることができないということが次の謎だ。

 ――不思議なこともあるものね。

 そして、闇蜜自身もそれに答えることができないようだった。いつの日か、これらすべての謎が解ける日がくるのだろうか。

 気が付くと、いつもの公園の前まで来ていた。毎日、行きはここで彼女と会い、帰りは彼女が井上を家まで送ってくれる。

 闇蜜の家はどこにあるのだろう? 本当に近くにあるのだろうか?

 そんなことを考えながら公園を横切っていると、不意に横ざまに引っ張られた気がした。まるで、重力が地球の中心を向くのを止め、横を向いたような、あるいは、足場が前触れもなく垂直に立ち上がって、なす術がなくなったかのようだった。もっと奇妙だったのは、井上がこの感覚に既視感を覚えたことだった。咄嗟に目を閉じた。悲鳴を上げる暇もなかった。

 重力の気まぐれは、ほとんど一瞬で終わってしまった。ほっとして目を開けると、目の前に闇蜜その人がいて、井上はのけ反った。

 「黒田さん!?」

 「井上くん」

 彼女は真剣な表情をしていた。きらきらした両の目で井上をまっすぐ凝視していた。

 「伝えたいことがあるの」

 「えっ」

 「もしかしたら、既に君は気付いているかもしれない」

 まさか、先ほどまで井上が悩んでいたことだろうか。だとしたら、とても困ったことになりそうだ。なぜなら、彼はそのテーマの思考を一時停止しているし、したがって結論が出せていないからだ。

 「あの、黒田さん――」

 「井上くん、私――」

 「ちょっと待って、落ち着いて――」

 「ベクトルも操れるの」

 「だからちょっと待っ――え、何だって?」

 井上は懸命にたった今聞こえたフレーズを理解しようと試みたが、脳がそれを拒否しているらしく、失敗した。

 「だから、私、ベクトルも操作することができるの」

 闇蜜が、心持ちはっきりと発音した。

 井上は、自分の勘違いであったことに安堵した。いや、聞き捨てならないワードが聞こえた気がする。

 「べ、ベクトル?」

 「そうよ」

 気付いてなかった? そう言って彼女は足元に落ちていた一枚の木の葉を拾い上げた。

 「こうやって、」葉の上に数字が4つ並んだ。「重力を逆向きにしてあげれば」4つの数字のうち、一つの数字の符号が変わった。それまで彼女の指から垂れ下がっていた木の葉が、下から風が吹き付けているかのように、上を向いた。闇蜜が指を話すと、それは空に向かってひらひらと舞い上がっていった。「ほら。ね」

 にわかには信じたい話が、また一つ井上に降りかかった。

 「もしかして、さっき僕のベクトルも?」

 「うん」

 「もしかして、昨日の昼休みに、椅子を引き寄せる時も使ったりした?」

 「うん」

 少しずつ頭の中を整理しながら、できるだけ落ち着こうと努力する。

 「それ、黒田さん自身のベクトルも操作できるの?」

 「もちろん」

 「じゃあ、毎朝木の上に座っているのは――」

 「この能力のおかげ。重力を弱めれば、細い枝の上でも平気で座っていられるの」

 闇蜜は不安そうな顔をしていた。「信じてくれる?」

 信じるも何も、論より証拠、たった今その力を行使して見せられたのだから、井上の中には、彼女を疑うという選択肢がありようもなかった。

 「もちろん」

 だってもう君の力をいっこ教えてもらっているからね、と微笑みかけた。

 「本当? 私のこと、変な子だって思ってない?」

 「不思議だな、とは思うけれど、黒田さんのことを変人だなんて思ったことは一度もないよ」

 じっと彼を見つめていた闇蜜の目が揺らぎ、彼女は俯いた。

 「黒田さん?」

 「良かった」

 下を向いたまま、彼女が声を発した。震えていた。

 「私、井上くんに信じてもらえなかったらどうしようって、怖かった。だって、私には井上くんしかいないから。井上くんにしか打ち明けられないことだから」

 顔を上げた彼女の目は赤かった。そして、気丈にも笑ってみせた。

 「ありがとう、信じてくれて」

 


 ♪♪♪



 暗い部屋でひとり、物思いに耽る。開いた文庫本はそのままで、文字は目に映ってはいるけれど、頭には入ってこない。

 彼と共有する秘密がまた一つ増えた。本当は全部、彼だけには知ってもらいたかった。彼なら、きっと私を見捨てないでくれるに違いない。これってわがままなのかな。

 それに、彼と一緒にいると、時々不思議な気持ちになる。彼に対する私の感情は何だろう。恋だろうか。それとも別のもの? 彼は私のことをどう思っているのだろう。気になりだすと、知りたいことが泉のように湧き出てくる。

 おかしなことに、何となく、ずっと昔から彼とは知り合っていた感じがする。でも、いつ、どこで? 全く思い出せない。そして、あり得ないとも思った。ずっとひとりだった。手を差し伸べてくれる人なんていなかった。分かってくれる人なんて、ひとりもいなかった。

 じゃあ、と頭の中の彼に問いかける。井上くん、君は誰なの。私の何?

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