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マドモワゼル・ブラック  作者: 関ひだり
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第三話

 吉田が言っていた“噂”は、どうやら本当に広まっているらしかった。

 三日目の朝、井上は闇蜜と、昨日と同じように一緒に登校した(ちなみに、今日も彼女は井上を木の上で待っていた)。教室に着くと、まだ時間に余裕があったが、既に何人かの生徒が集まっていて、同時に入ってくる二人を振り返り、またすぐ視線を戻した。何やらひそひそ話をしているらしい。窓側の席へ移動する際、会話の一部が耳に入ってきた。

 「ねえ、聞いた?井上くんと黒田さん、付き合ってるって」

 「聞いた、聞いた。あの噂、どうやら本当みたいね」

 「ね!一緒に登下校してるっていうし」

 「しかも、昨日は同じ委員に立候補していたよね」

 井上は聞こえなかったふりをして自席に着いた。闇蜜は一歩遅れて着席したが、何も聞こえなかったのか、あるいは井上と同じように聞こえないふりをしているのか、こともなげに座っていた。井上がずっと彼女を見ているのを不思議そうに見返して、首を傾けた。

 「どうかした?」

 「いや、何でもないよ」

 井上は慌てて視線を前に戻し、一限目の現代国語の授業準備を始めた。闇蜜はいつもどおりに腕を枕にして眠り始めた。

 井上が暇つぶしに教科書を読んでいると、後ろの席の宇治が登校してきた。

 「おはよう、井上くん」

 「おはよう」

 宇治とは、闇蜜が授業と授業の合間の休み時間などに寝ているときにお喋りをする仲だった。昼休みには彼と出身中学を同じくする湯沢も加わって三人で弁当を食べる。ちなみに闇蜜は食堂で食事をとっているらしく、教室にはいない。

 宇治は、闇蜜が眠っていることを確認して、話し始めた。

 「やっぱり井上くんたちは付き合っているのかい」

 またか、と井上は困惑した。

 「いや、そういうわけじゃないんだよ。ちょっと、色々あって、偶然一緒にいることが多いだけなんだ」

 「色々って?」

 「ほら、たまたま席が隣だったり」

 月曜の数学の時間の話は、闇蜜本人から口止めされているし、説明するとしても難しいから伏せておく。

 「ふうん」

 宇治は井上の顔と闇蜜の後頭部とを交互に見た。完全には納得していないようだ。これ以上詮索されても面倒なので、井上は話題を変えることにした。

 「ところでさ、現国の教科書を読んでたらさ、――」



 ***



 一限目の終わり。

 「現代文の授業、これから面白くなりそうね」

 教室を出ていく現代国語の庭桜(にわさくら)先生の後ろ姿を見送りながら闇蜜が言った。

 「そうだね。班を組んでディスカッションをしながら教科書を読み進めるスタイルは初めてだよ」

 授業の初めに、庭桜先生はこんなことを言った。

 「諸君の中には、現代国語、いわゆる現代文が苦手だと感じている生徒も多いだろう」――隣で闇蜜がびくっと反応した。――「確かに、現代文は、数学や何かとは違って、解釈が幾通りも存在し得る。先生は、その全てが間違っているとは思わない。むしろ読み方は人それぞれであって然るべきだと考えている。ただし、それでは困ることがあるわけだ。……そう、試験だ。先生は、試験は嫌いだよ。問題を解くのも、作るのも。しかし、それを避けることはできないのもまた事実だ。では、どうすれば良いか?」

 庭桜先生は教室を見渡した。

 「諸君には、より豊かに、楽しんで文章を読むことができるようになってもらう。そして同時に、表現できるようにもなってもらう。先生は、それを手助けする。諸君より長く生き、諸君より長い間、より多くの、様々な文章に触れてきた先輩として。

 まず諸君に身に着けてもらいたい技能は、『多角的に物事を捉えること』だ。先程も言った通り、文章の解釈は一通りではない。そこで」

 再び先生は言葉を切った。口調も相まって、なんだか演説を聞いているみたいだな、と井上は思った。

 「諸君を班に分ける。その班内で自分たちの解釈を共有し、議論してくれたまえ。自分のものとは違う考えに触れ、それを排除するのではなく、『なるほど、そういう考え方もあるのか』と学ぶのだ。この授業を一年間受けた後の諸君は、今現在と比べて、現代文への態度が変わっていることだろう」

 その後、庭桜先生の指示で五人ずつ班を作り(井上と闇蜜は同じ班になった。宇治も一緒だ)、先生が配布した練習用の短めの文章について、早速話し合ったのだった。初めての授業形態で、新鮮だった。

 「これで、現代文も好きになれるかなあ」

 それでも闇蜜は不安そうだった。月曜日の放課後に彼女が宣言したことを思い出す。井上は、庭桜先生の言ったこと全てに同意したわけではないが、勉強を好きになることは興味を持たなければ始まらないから、現国の授業のこの形式にも一理あると思った。

 「大丈夫だよ。あの先生についていけば、きっとできるようになるよ」

 何しろ“先輩”だからね、と笑った。

 「でもさ、毎回ディスカッションをするっていうんだったら、しっかり予習しなきゃじゃん?面倒だなあ」

 そう零したのは、同じ班で闇蜜の後ろの席の小石だ。彼は先ほどのディスカッションで、他の誰も思いつかなかったような突拍子もないことを発表した。ある意味では、天才肌なのかもしれない、と井上はひっそりと思っている。

 「予習するのなんて当たり前でしょ。というか、予習してこなかったら怒るよ」

 腰に手を当てて叱ったのは、これまた同じ班で宇治の後ろの席の江崎だ。

 「予習してこなかったら、うちの班のまとめた意見の発表役をやってもらうからね」

 「うわあ、それも嫌だなあ」

 宇治がのんびりと言った。嫌だとは言っているものの、表情には余裕が見て取れる。きっと彼は毎時間予習するだろうと思う。

 「それにしても井上はすごいな。どうやったら、あんな短時間であんなに読み込めて、おまけに考えをまとめられるんだ?」

 小石が井上に感心の眼差しを向ける。

 「そうそう。私もああいうことまでは考え付かなかった」

 闇蜜も井上を見た。井上は褒められることに慣れていなかったのでどぎまぎしてしまった。

 「何だろう、僕はただ本を読むのが好きなだけなんだけど……」

 「やっぱり読書はしなきゃだめなのかあ」

 小石が呻いた。人を見た目で判断するのは良くないことだとは思うけれど、見るからに彼は読書とは縁遠そうだった。「あの先生の言う通りか」

 「私もそう思う。今まで私はひとりでしか読書をしたことがなくて、人と考えを共有したことがなかった。だから、それができるこの授業なら、好きになれそうな気がする」

 闇蜜の言葉に、他のみんなも頷いた。

 「井上くんは、授業が始まる前にそうだったように、読んだ文章について自然に人と語り合うことができているんだよ。僕も見習わないと」

 確かに、宇治とは予習した文章について話したっけ。井上は朝の出来事を思い出す。

 「ようし。みんなで一緒に頑張ろう!」

 「応!」

 江崎の音頭に残りの四人が答えた。



 ***



 昼休み。

 井上がいつものように教室で宇治と湯沢と机を囲んで弁当を食べていると、斜め上から声が降ってきた。「私も混ぜてくれる?」

 三人とも一斉に顔を上げると、闇蜜だった。購買部で買ったらしいサンドイッチとジュースのボトルを持っている。

 「あれ、黒田さん、いつもは食堂で食べているんじゃなかったっけ?」

 言いながら井上は机のスペースを闇蜜のために少し空けた。

 「気が変わったの」

 ありがとう、と微笑みながら、彼女は自分の椅子をこちらまで指先だけで(、、、、、)引き寄せてきて座った。井上はそれを見て奇妙だな、と訝しんだ。しかし、宇治は自分の弁当箱をもう少し引き寄せようとしていて見ていなかったようだし、湯沢はどういうわけか闇蜜の顔をずっと見ていて指先までは気が付かなかったらしく、つまり二人とも、何も感じなかったようだ。

 「何の話をしていたの?」

 三人とも言い出せなかった。というのも、今までの話題は、湯沢の言い出した「黒田さんって超キレイだよな」だったからである。どうやら本気でそう思っているらしいな、と井上は今の湯沢の反応を見て納得した。同時に、もやもやした何かが井上の中に渦巻いた。湯沢に、これ以上、闇蜜を見ていてほしくないと思った。幸いにも、闇蜜本人は湯沢が自分を凝視しているのに気付いていないようだった。

 「どうしたの?」

 闇蜜が不思議そうな顔をして井上に問いかけたことで、井上ははっと我に返った。そうだ、いったい僕はどうしてしまったのだろう。まるで湯沢に嫉妬するような気持だったのかもしれない。昨日と同じ疑問がもたげてきて、井上は戸惑ってしまった。どうして嫉妬なんかしなくちゃいけないんだ!

 「ううん、なんでもないよ」

 井上は、精一杯平静を取り繕った笑みを顔に貼り付けて答えた。しかし闇蜜はその返答では納得せず、しばらく井上の顔から目を逸らさなかった。

 午後の授業はあまり集中できなかった。というのも、闇蜜に対し見え透いた態度で誤魔化してしまったことが気がかりだったし、その上、隣の席からほとんどずっと視線が刺さっていたからだ。彼女は、最後のホームルームまで終始無表情だった(と思う。何しろ井上は気後れして彼女の方を向くことができなかった)。井上は、放課後はいつものように誘われて、帰り道で色々問い詰められるのではないかと恐れた。自分の気持ちも整理できていないままで、彼女が満足するような返答は期待できなかったからだ。

 しかし、井上の予想に反して、闇蜜はホームルームが終わるや否や、すぐに鞄を持って立ち上がり、教室から出て行ってしまった。後を追うべきか迷っていると、宇治が声をかけてきた。

 「井上くん、明日の授業のことなんだけどさ……」

 結局そのまま、話をなかなか切り上げることもできず、おまけに小石まで話に加わり、井上はいなくなった闇蜜を追うことができなかった。ようやく解放された頃には、教室にも廊下にも生徒があまり残っていなかった。これだけ時間が経っていれば、さすがに彼女はもう帰路についているだろうし、もしかしたらとっくに帰宅してしまっているだろうと思った。何となく重い気持ちのまま井上はとぼとぼと廊下を進み、曲がり角のところで歩みを止めた。

 ここで彼女の秘密を知ったんだ。井上は二日前のことを思い出した。ここで初めて彼女と真正面から対峙し、彼女の不思議な力について聞かされたのだ。にわかには信じがたい話でも、実際にこの目で見たものだったから、信じずにはいられなかった。そして、この場所で二人だけの秘密と約束を共有し、彼女はくるりと回って――。

 唐突に激しい頭痛が井上を襲った。あの日、彼女は回って僕になんて問いかけたっけ。「私たち、どこかで会ったことがある?」それに対して僕はノーと答えた。そうだ、僕たちはこの学校で始めて出会ったのだ。それ以前に出会っていたはずはない。

 しかし、時々脳裏に浮かぶ光景は何だ。夕暮れ、夕日、泣き顔。どうして彼女は泣いていたのだろう。どうして知らないはずの彼女の泣き顔を知っているのだろう。思い出そうとするほど、黒い霧が彼の視界を覆う。だめだ、これ以上は、あまりの痛みに頭が割れてしまう……。

 「大丈夫?」

 上から声がした。途端に頭の痛みがすっと消えた。目を開けると、真新しい上履きがすぐ近くに見えた。どうやらいつの間にかしゃがみこんでしまっていたらしい。

 「井上くん、大丈夫?立てる?」

 手が差し出される。井上はその手と、壁を頼りに立ち上がった。闇蜜が心配そうに井上の顔を覗き込んでいた。

 「保健室に行こうか?」

 「大丈夫。ちょっとクラクラしただけだから」

 実際は「ちょっと」どころではなかったが、今はもう痛みは引いているし、何より闇蜜をこれ以上心配させたくなかった。

 「それよりも、黒田さん、どうしてここに?もうとっくに帰ったのかと思ってたよ」

 「私は図書館で本を借りていたの」

 そう言って彼女は三冊の本を見せた。

 「その帰りに教室に戻ろうと思ったら、井上くんがここで急に屈み込んだから慌てて駆け寄ったの」

 「そ、そうなんだ」

 そっか、怒って先に帰ったとかではなかったのか、と井上は少し安堵した。

 「昼休みのことなんだけど……」

 「私が、何の話をしていたのかって問いかけたこと?それはもう聞かないから安心して。男の子には、女の子に聞かれたくない話もあるでしょうし」

 女の子も同じだしね、と彼女は笑った。

 それから二人は並んで歩きだした。昇降口で靴を履き替える。

 「ところで、どうして急に図書館で本を借りようと思ったの?」

 闇蜜が靴を履き終えるのを待って、井上が訊いた。

 「だって、今日の一限の現国の時間に言ったじゃない。現代文を頑張らなきゃって。読書が必要だって。ほら、私、本は好きだから」

 確かに、先ほど見せてくれた本は、専門書ではなく、すべて文学作品だった。

 「私ね、『他人の気持ち』がわからないの。昔から。当然、雰囲気とか空気を読むのも苦手で、周りを困らせたりしてきた。きっと、そのせいもあって、ずっと変な子扱いされちゃってたんだと思う」

 闇蜜は俯いて、静かに語り始めた。急な独白に井上は驚いたけれど、口を挟まず黙って耳を傾けた。

 「文章を読んだって、『筆者の気持ち』なんて分かったためしがないよ。あったとしても、あからさまに考えや感情を表す直接的な描写があった時くらい」

 それから、少し沈黙が続いた。二人の靴音だけが小さく響いていた。やがて、彼女はゆっくり口を開いた。

 「私、変われるかな?」

 涙声だった。それまで前を向いて歩いていた井上ははっとして彼女を振り返った。鼻の頭に朱が差し、唇は小刻みに震えていた。

 「現代文っていうのはさ」

 井上は言葉を選びながら慎重に話し始めた。できれば彼女には笑顔でいてほしい、その想いで必死だった。

 「現代文は、筆者の気持ちを考えることのテクニックに重点が置かれがちなんだけれど、僕はちょっと違うと思うんだ。本当はね、そんな小手先の技術なんかじゃなくて、ごく自然に、オーケストラの演奏を聴くみたいに、あるいはレストランで料理を食べるみたいに、物語を読むことが大切なんだと思う。深く考えなくても、美しい旋律は耳に心地よく入ってくるし、食事は美味しいもの」

 闇蜜は潤んだ目で井上を見上げた。それを意識すると井上は赤面して目が回りそうになったが、何とか持ち堪え、続けた。

 「だから、焦らなくても良いんだ。少しずつ、ゆっくり進めば良い。せっかく黒田さんが一生懸命に歩み寄ろうとしているんだから、言葉だって、きっと向こうからも歩んできてくれるよ。大丈夫。僕も一緒に頑張るから」

 言い終え、一刻も早く走り去りたい衝動に駆られ、井上は闇蜜から目を逸らした。とても恥ずかしいことを言った気がする。

 「ありがとう」

 少しだけ震えた小さな声で、しかしはっきりと、闇蜜が言うのが聞こえた。恐る恐る視線を戻すと、彼女は笑っていた。夕日が、涙で濡れた彼女の瞳に反射してきらきら光っていた。

 その泣き笑いのような闇蜜の表情は蠱惑的で、ずっと見ていたいな、と井上は思うのであった。

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