第二話
翌朝。井上は昨晩授業準備を前もってしっかりと済ませてあったため、余裕をもって家を出ることができた。
「いってきます」
今日もとてもいい天気だ。澄み渡る青い空にところどころに浮かぶ千切れた白い雲。清々しい気持ちで井上は歩き始めた。
普段通り、公園を横切ってショートカットする。そのとき、
「井上くん」
斜め上の方から声がした。割と聞き慣れ始めた声だ。しかし辺りを見回しても人影は見当たらない。井上は、空耳かと思い直してまた歩き始めた。
「井上くん」
再び声がした。今度は少し近くから聞こえた。やはり誰の姿も見えない。井上は心当たりのある名前を呼びかけた。
「黒田さん?」
「上です、上」
井上は視線を上に向けた。すると、近くの木の枝に闇蜜が腰かけていて、こちらに向かって微笑んでいた。
「黒田さん、どうしてそこに……というか危ないんじゃ……?」
井上が慌てていると、彼女はえいと枝から飛び上がり、鳥の羽のようにふわりと井上の目の前に着地した。
「待ってたんだよ。さあ、一緒に登校しましょう?」
「う、うん」
井上がぎこちなく首肯する。
「待っていてくれてありがとう」
改めて考えてみると井上にとってはとても照れくさい状況だったので、彼は赤面しながら言った。
「平気だよ。本当は君の家の前まで迎えに行こうかとも思ったんだけど、井上くん困っちゃうかなあって」
確かに、彼女のような女性が予期せず自宅前で自分のことを待っているとすれば、奥手な井上なら下手すれば失神してしまうかもしれなかった。木の上から声を掛けられるのも十分驚くことではあったが。
その後二人は他愛もない会話を交わしながら学校の門をくぐり、教室に入ったのはショートホームルームの始まる20分前だった。まだクラスの大半の生徒は登校していない様子だった。
「ちょっと眠くなってきちゃったから寝るね、おやすみなさい」
闇蜜は自席に着くなり腕を枕にして机に伏せてしまった。そういえば昨日の朝も授業中に寝ていたので、もしかしたら彼女は夜更かしをしていて寝不足なのかもしれない。井上は闇蜜の側頭をちょっと眺めてから、他にすることもないので自分の鞄から一限目の英語の教科書を取り出し、予習も兼ねて本文を読むことにした。
不意に肩を叩かれた。
「よう」
驚いて顔を上げると、同じ中学に通っていた吉田だった。確か彼は隣のクラスに所属しているはずだ。
「おはよう、吉田」
「なに朝から教科書なんか読んで、優等生気取りか」
「そんなんじゃないよ。ただ他にすることがないんだ」
「だったらよ、今からちょっくら校内探索に出かけないか。まだ俺たちこの学校についてあんまり知らないだろ」
「そうだね、」井上はちらと闇蜜を見て、どうせ探検するなら彼女と回りたいと思ったが、自分が少し知識を付けて、後で案内してあげようと思い直した。「行こうか」
井上と吉田は適当に雑談しながら校内をぶらぶらと散策した。玄関の方からは登校してきた生徒たちのざわめきが聞こえた。大して時間もなかったので、廊下を回って各教室の位置を確認した程度で済ませた。それから、各自のクラスに戻ろうと歩き、昨日井上が闇蜜と話をした場所を通りかかった。
刹那、井上の脳裏に不可解な光景が映った。夕暮れ時、闇蜜が泣いていた。未だ井上が見たことのないはずの彼女の泣き顔。涙に濡れながらも懸命に笑おうとしている、そんな表情。
「どうした?」
吉田の声がして井上は我に返った。どうやら立ち止まっていたらしく、吉田は井上より数歩前にいた。怪訝な顔をしてこちらを振り返っている。
「チャイム鳴っちまうぞ」
「ああ、ごめん」
二人は再び廊下を進んだ。教室周辺には生徒がたくさん群れていた。
「なあ井上、そういえばさ」
「何」
「昨日から流れている噂なんだがな、お前、学校始まってからまだ間もないのに、もう誰かと付き合ってんのか」
「はい? なんだよそれ」
「だって聞いたぜ、昨日の午前中に廊下で二人きりで喋ってただの、放課後は一緒に並んで帰ってただの」
「それは誤解だよ。確かに昨日は一緒に帰ったし、今朝も一緒に来たけど」
「今朝も? そりゃお前、決定だな。やっぱり付き合ってるんじゃないか」
「そうじゃないってば。僕たちはまだ――」
「まだ? ほうほう、すると井上、彼女に気が――」
そこで運よくチャイムが鳴った。井上は、
「急がないと遅刻扱いだぞ」
と言い捨て駆け出した。吉田も一拍遅れて走り出しながら、
「話はまだ終わってないからな!」
と大声で叫んできた。面倒くさいなあ、全く、と井上は聞こえなかったふりをして自席に舞い戻った。先生も同時に教室に入ってきて、ショートホームルームが始まった。闇蜜はまだ眠っていたので、起こそうと思って彼女の肩をつついてみたが、目覚める気配もなく、ただ呼吸に合わせて肩を上下するだけだった。しばらく井上はそんな彼女を眺めていたが、結局起こすのは諦めて、仕方なく、連絡事項を聞いておいて後で伝えてあげようと思い前に向き直ると、
「これでショートホームルームは終わりです」
先生は教室を出て行くところだった。
***
この学校の英語の授業では、ALTとして外国人の教師が毎時間付くことになっているらしい。新任の英語の教科担任の樋口先生は、青い目をした、背の高い、鷲鼻のALTを紹介した。カーター先生です、先生、よろしくお願いします。カーター先生は軽く会釈をすると、教壇に立った。
「おはよう、みなさん! 私はデイヴィッド・カーター、君たちのALTです。会えて嬉しいよ。楽しい授業にしましょう。さ、何か質問はあるかな?」
恐ろしいほどの早口だった。しかも訛りがあるらしくほとんど聞き取れない。周囲を見回すと、誰もが口を半開きにして先生をただ見つめていた。樋口先生は、どうしてよいかわからなくなったようにおろおろしていた。唯一、隣の席の闇蜜だけは、右手を空中に高々と挙げていた。珍しく起こされる前から目を覚まして先生の話を聞いていたらしい。
「はい。えっと、君は……」
「闇蜜です、先生」
「では、アンミツさん、質問はなんですか?」
「英語の学習についてです。先生は、英語を最も効率よく学習するにはどうすれば良いとお考えですか?」
「私の意見でいいのかい?そうだね、やはり英語は話せることが重要だと思います。だから、たくさん英語を話すことが最も効率的かな」
「文法についてはどうでしょうか」
「それも、気を付けて話していれば自然に身に付くはずだよ。私でよければ、いつでもチェックしてあげられるから気軽に声をかけてください」
「ありがとうございます、カーター先生」
「ああ、デイヴと呼んでくれて構わないよ」
「わかりました」
闇蜜とカーター先生が二人だけの世界を築いている間、井上を含むクラス全員が、早口に早口で応酬する闇蜜を称賛する気持ちと、何を言っているのか全く分からないという戸惑いとを上手に混ぜ合わせた微妙な表情を浮かべていた。樋口先生は、会話が終わったことに気づけず、カーター先生に「ヒグチセンセ?」という片言の日本語によってようやく我に返った。
***
「黒田さんって、英語もペラペラなんだね」
あの後の英語の授業は、なんとなく腰砕けになった樋口先生とカーター先生とでテキストのダイアログを朗読したり(カーター先生は、実ははじめはわざと早口で喋っていたらしい。闇蜜との会話の後に、普通のスピードの標準の英語で種明かしをしてくれた。ちなみに先生は「その英語についてこられたアンミツさんに拍手を」と言ってクラス全体が拍手し、当の闇蜜は照れくさそうに笑っていた)、生徒に隣同士でペアを組ませ音読の練習をさせたりした。井上は当然闇蜜と組むこととなり、彼女と向かい合わせになって緊張してしまい、何度か英語を読むのに躓いてしまった。終業のベルが鳴り、カーター先生はまるで陽気な嵐のように手を振りながら教室を出ていき、樋口先生は慌ててその後を追っていった。
「そう?小さい時から英会話をやらされていたからかなあ」
「何歳のときに始めたの?」
「3,4歳かな」
幼稚園に入る前だ!井上は目を瞠った。
「いいなあ、僕は普通に中学から英語を始めたから、黒田さんみたいには喋られないよ」
「でも私、英語が特別好きってわけではないの。文法も苦手でよくわからないし……だから、私は文法がしっかりできる人の方が羨ましい」
「そうかな。でも今の時代は英語が話せる方が何かと役に立つって言われているけど」
「それは、日本国外に出て、英語圏に行く人にのみあてはまるの。井上くんは海外へ出るの?」
井上は考えてみた。可能性はなくはないが、とりあえず今のところ日本を出る予定はない。
「ないかな」
「でしょう?だからわざわざ喋られるようにならなくたっていいの。英語は試験のためと思って勉強した方がかえって得だわ」
「そういえば、さっきALTのカーター先生と話してどうだった?」
「別に。ただ彼がアメリカではなくイギリスの出身だってわかったくらい。多分マンチェスターね」
井上の記憶と英語力によれば、闇蜜がそのような質問をしていたことはないはずだが。
「発音の違いよ。アメリカ英語とイギリス英語ではけっこう違うの」
さらっとすごいことを言ってのけた。井上もアメリカ英語とイギリス英語が異なるということは聞いたことはあったが、カーター先生の英語を直接聞いていても、わからなかった。しかし彼女の顔には得意げなものはなく、むしろ悲しみと苦しみの陰が見えた。井上は闇蜜の横顔を見つめた。もしかすると、彼女には英語にまつわる嫌な思い出があるのかもしれない。だから、こんなに英語が話せるのに英語を好きではないと頑なに拒むのかもしれない。
闇蜜がこちらを見た。
「何?」
「なんでもない」
真っ赤になって井上は慌てて視線を外した。それでも彼女がこちらを見たままなので、井上は小さな声で、
「もし、悩んでることがあったら、その……僕でよかったら相談くらいは乗ってあげられるから」
そう言ってからまた赤面した。相談されたって、井上はどうすることもできないことはわかっていた。闇蜜はちょっと驚いた表情で井上の顔を見つめたが、やがて、
「ありがとう。嬉しい」
と微笑んだ。その笑顔を見ていると、井上はなんだか何でもできそうな気がした。後で振り返ると、自分はなんと単純な男なのだろうと苦笑してしまう井上なのであった。
***
授業がすべて終わって、残るのはLHRだけとなった。
入学して最初のLHRだからそれなりに長くかかるかもしれない。周囲の生徒は、疲れただの早く帰りたいだのと不満げだった。
チャイムが鳴って、担任の大平先生が入ってきた。大平先生は、今日のこの時間は全員の軽い自己紹介と学級委員の選出をします、と言った。自己紹介か。特に何も言うことも考えておらず、井上は――おそらくクラスの大半はそうだったのかもしれないが――急いでスピーチすることを頭の中でまとめた。
窓側から、つまり出席番号順に、阿部、安堂、そして井上。阿部はサッカーを昔からやっているから高校でもサッカー部に入りたいと言った。安堂は、合唱部に入って全国大会に出場するのが夢だと語った。井上は、これまで何かに打ち込んできた経験もなく、入りたい部活動も特に決めていなかったので、至極無難に、みんなと仲良くなれたらいいなと思います、よろしくお願いします、と言った。そして後悔する。まるで小学生みたいな自己紹介をしてしまった。
その後も、宇治、江崎、小野嶋、甲斐、加藤、木下と続き、闇蜜の番になった。彼女は音もなく立ち上がった。
「黒田闇蜜です。みんなと仲良くなれたらいいなと思います。よろしくお願いします」
そう言ってお辞儀をして席に着いた。井上は唖然とした。なぜならば、闇蜜は井上と同じことを言ったからである。彼女は井上を見てにっこりと微笑んだ。井上はただ見つめ返すことしかできなかった。
続く生徒の自己紹介も滞りなく進行した。最後の渡辺が自己紹介を終えて椅子に座り、だんだん小さくなっていった拍手が鳴りやむと、大平先生は、次は学級委員の選出をしましょうと言った。委員には、代表や放送や生活などの種類があり、各クラスからそれぞれ2名ずつ選出することになっている。井上は特に何をしようとも考えておらず、いったい誰がどの委員を引き受けるのだろうと見物を決めこむ予定だった。辺りの生徒も、おれ代表は嫌だけど放送委員にならなってみようかな、などと呟いていた。ところが、大平先生はまず代表委員を選出しなければ先へは進まないと宣言したため、クラス全員が黙りこくってしまった。入学したての高校生活で、詳しい役割こそ知らなくとも名前から大方見当が付くようで、そのような面倒な役職に進んで立候補する生徒はいないようだった。次第にその沈黙は苛立ちを含んだものとなり、近隣では、やれお前手を挙げろよ、いやお前が、などと小競り合いが始まった。しばらくそれは続いていたが、一向に決まる気がしなかった。
ふと、井上の頭に次のような考えが過った。僕は、部活動に入部する予定もなく、その上役職にも就かないだなんて、そのまま何事もなく卒業してしまったとして、後から振り返ったときに、高校生活を満喫できた、と言えるだろうか。折角の一度きりの高校生活を、少しでも面白いものにしたくはないのか。
気が付けば、井上の手は空中に挙がっていた。
「はい、僕がやります」
教室中が一斉に彼を振り向いた。井上は自分でも驚いた。一瞬の気の迷いとは恐ろしいものだ、と思った。誰からともなく、拍手が湧き起こった。
「じゃあ井上くん、よろしくお願いします。それでは、もう一人の代表を……おや」
大平先生はそこで静止した。闇蜜が井上の隣で手を挙げていたからだ。
「私もやります」
教室の隅から小さく「おおー」という歓声が上がった。一拍遅れて拍手が再び起こった。井上は呆気に取られて彼女を見た。闇蜜は井上の顔を見返して微かにウインクした。
「ということで、代表委員は井上くんと黒田さんの2人に任命します。みなさん、よろしいですね」
全員異議なし、と教室中が三度拍手に包まれた。闇蜜は目の前で数式を組み合わせて星形の図形を井上に向かって優しく投げてきた。
その後の委員選出は、代表選出にかかった時間が嘘のようにすんなり決まった。それから、大平先生が、これから一年間、一緒に頑張っていきましょう、と締めくくり、LHRが終わった。
***
放課後、みんなが掃除のために机と椅子を移動させる騒音に紛れて、闇蜜が井上にそっと耳打ちした。
「今日も一緒に帰りましょう」
井上も彼女と話したいことがあったので首肯した。
校門を抜けて並んで歩く。美少女の隣を歩くのは3度目でもなかなか慣れなかった。井上が闇蜜の方を向くと、彼女は井上を見つめていてびっくりした。平静を装うために、井上は前を向いて口を開いた。
「黒田さんは、どうして代表委員に立候補したの?」
井上が彼女に聞きたかったことの一つだった。彼女は井上を見つめながら答えた。
「それはね、」
――それはね、君と同じ委員になりたかったからだよ。
これは井上の願望であり、妄想で、答えではないと分かっていた。
「それはね、君に勇気をもらった気がしたから。あの膠着状態を打破した井上くんは格好良かったよ」
願望とは違ったものの、井上は闇蜜の言葉にどきっとした。それ以前に、井上は自分の考えに疑問を抱いた。願望であり、妄想?それじゃあまるで僕が黒田さんのことを……?
「井上くんは、どうして代表委員に立候補したの?」
闇蜜が尋ねてきたので井上は思考を中断した。彼は、先ほど自分の頭をある考えが過ったことを話した。
「そっかあ、そうだよね。高校生活は一生に一度きりだものね」
そう言って彼女は微笑んだ。素敵な笑顔だった。
やがて2人は公園まで来た。ふと疑問に思ったことを口にした。
「そういえば、黒田さん、今朝、木の上に登っていたけど、あれってどうして?」
「今日も送っていくね、井上くん」
闇蜜は井上の質問には答えず、半ば強引に井上を家まで送った。
「それじゃ、また明日」
「また明日」
彼女は歩いて行ってしまった。どうして彼女は時々井上の質問をかわすのだろう。井上は家に入りながら考えた。もしかして木の上に住んでいるとか?まさか、鳥じゃあるまいし。頭が悪そうな自問自答をやめて、井上は、ただいま、と声を出した。
それから普段と変わらない生活をして、寝る時間になり、井上はベッドに滑り込んだ。昼間のことを思い出す。
そういえば、自己紹介のとき、黒田さんは僕と全く同じ台詞を言っていたっけ。あれはどういうことなんだろう。それをぼんやり考えているうちに、いつしか彼は眠ってしまった。