第一話
月曜日。入学式を終えて今日から晴れて高校一年生として最初の授業日だというのに、井上家ではちょっとした騒動が起こっていた。
「母さん、僕のノートとペンケース、知らない?」
試着を含めてまだ三回しか着ていない制服を着て、家中至るところをひっくり返してまわっている少年が、母親に大声で訊く。
「知らないわよ、そんなもの」
あれほど昨日のうちに準備しておきなさいと言ったのに、と母親が返してくる。昨晩、今日の授業のための予習をしたあと、どこへやってしまったのだろう。彼は相当に焦りながら走り回る。初日から遅刻や忘れ物なんてごめんだ。半ば泣きそうな顔をしながら必死になって探していた。
タンスの中、テーブルの下、机の上、可能性のありそうな場所、なさそうな場所含めてあらゆるところを引っ掻き回したが、どういうわけか一向に見つからない。このままでは遅刻だ。ノートとペンくらい、仕方がないので別のもので代用するしかない。そう思って自室に駆け戻り、今日必要なテキスト、ノート類を鞄に放り込んでいく。すると、――あった! 彼としてはあまり信じたくないことに、既に鞄の中に件のノートもペンケースも一緒になって入っていたのだ。これには彼も脱力して、ベッドに仰向けになって三分くらいのあいだ身動ぎ一つできないほどだった。
その後、半ば疾走するようにしてなんとか時間内に学校に到着し、軽く息を切らして自席までたどり着いた。ショートホームルームを終え、一限目の数学の授業のための準備をする。出席番号の関係で窓側の席を指定されている井上は、ざっと教室全体を見回してみた。入学したばかりということもあり、生徒間の交流はあまり多くなく、同じ中学出身の人と輪をつくっているか、あるいは隣の人とおずおずとあいさつをかわしている程度だった。井上の隣の女生徒は、机に突っ伏して寝ているようだった。
始業のチャイムが鳴り、教師が入ってくる。背は高くないが、精悍な顔立ちで、スーツ姿ながらスポーツが似合いそうな体格の持ち主だった。教師は、小杉と名乗った。一通りの高校数学を学ぶ心得などを話し、続いて教科書を開くように指示した。井上がちらと目を隣に向けると、驚いたことにその女生徒はあれからずっと眠っているらしい。教科書もノートも机上に出ていない。授業を進めていた小杉先生も当然気付いた様子で、彼女の後頭部を一瞥して咳払いを一つした。
「初日から寝るんじゃないぞ」
はじめは遠まわしに注意する。しかし彼女は顔を上げようとはしなかった。よほど熟睡しているのか。あるいは無視しているのか。
周りの生徒たちもざわつき始めた。あの子、一番初めの授業から爆睡だなんて、すごいね。
先生もこれには内心驚いているのだろう、多少苛立った様子で彼女の寝ている机の前までやってきて、もう一度咳払いした。それでもその生徒が動かないので、先生は机を指でトントンと叩き、「起きなさい」と少し声を大きくした。
そこでようやく彼女は反応を示した。ゆっくりと顔を上げ、ぼんやりと先生を見上げる。彼女は、横顔から判断しても、とても綺麗な人だと井上は思った。同時に、こんな美人でも授業中に寝るなんてことはあるのかも思った。
「おはようございます……?」
「おはよう。早速だが、今説明していた問題を解いてもらおう」
いきなり先生は彼女に対し出題を始めた。授業中寝ている生徒を指名するのは、きっとどこの学校でも同じなのだろう。
「どの問題ですか」
「これだ」
教科書も開いてないのか、と先生は息を吐きながら自分の教科書の開いたページを彼女に見せた。井上は、先生が意地悪しているのだと分かった。先生の開いているページは今授業で説明してなんかいなかったし、教科書のずっと後ろのページだったからだ。当然、小杉先生は女生徒に恥をかかせようとしているのは明白だ。先生の顔を見ればすぐにわかる。さて、この生徒はいったいどうするのかと彼女の横顔を見た井上は、一瞬自分の目を疑った。
彼女の頭の周りに、数字や記号が浮かんでいる。今見せられている問いに関連するものだと思う。それが彼女の目の前に機敏に整列し、そして急速に歪められ、複雑に変形してゆく。まるでコンピュータの演算過程をディスプレイで見ているような気分になった。やがてそれは、とある等式の形になって落ち着いた。きっとそれが問いに対する答えに違いない。しかし小杉先生は、何も言葉を発しない彼女を見下ろして、呆れたような表情をした。
「いいか、わからないのなら、ちゃんと起きて授業に集中し――」
その時、彼女は先生の発言を遮って突然立ち上がった。そしてそのまま黒板に向かって歩き出し、チョークを手にして等式を書き付けた。
小杉先生は電気ショックを喰らったように一瞬動きを止めてしまった。それから慌てて教授資料をめくり解答を参照した。どうやら正解だったらしい。小杉先生は驚いたように呟いた。
「何故、今……途中式もなしに……。まさか暗算で……?」
井上は少し不思議に思った。彼女はたった今まで、数式を目の前で捩じり回していたじゃないか。
「その……うむ、よろしい」
若干しどろもどろになりながら、小杉先生は教壇に戻っていった。生徒たちは彼女に今度は賞賛の眼差しを向けた。あの問題を一瞬で、しかも暗算で。何なのあの子。天才?
その後の授業は、まるで何事もなかったかのように続いた。もちろん、教科書は最初のほうのページから再開した。隣の女生徒は、教科書こそ開いているものの、理不尽な意地悪をされたことに対する抗議もなければ、そもそも授業に集中している様子は全くなく、ただ井上が知らない数式やらグラフやらを目まぐるしい速さで回転させたり変形させたりしていた。そのうち、先生が教科書にある設問を生徒に黒板で解かせるようになると、彼女は当てられた生徒よりも遥かに速く問題を解き、出した答えの数字を黒板に向けて飛ばして遊んでいた。その行為も十分おかしなものだったが、井上にとってもっと奇妙だったのは、それについて誰も触れないということだった。
不意に彼女がこちらを振り向き、彼女を見ていた井上と目があった。井上の心臓が跳ねた。女生徒はゆっくりと首を傾げ、それから何かを喋ろうとしたのか口を開きかけたちょうどそのとき、
「よし、じゃあ次は井上。(3)を解いてくれ」
小杉先生が井上を指名したため、井上は前に出なければならなかった。黒板には、教科書と同じ問題の数式が書かれてある。井上は誰にもわからないように顔をしかめた。というのも、予習した段階で、この問題が解けなかったのである。チョークを手にしたものの、何を書いていいかわからなかった。高校最初の授業で指名された問題が解けないのは恥ずかしいと、汗をかいた。しかしずっと黙っているわけにもいかず、諦めて白旗を挙げようかと覚悟した瞬間、何かが井上の頭を掠め、音もなく黒板に当たった。それは、数式だった。井上は教室を振り返った。生徒の半数がこちらを見上げて井上が答えを書くのを待っているようだった。例の女生徒は再び黒板に向けて数式を投げつけてきた。
井上は黒板に向き直った。何も書かないよりは、書いた方がいいに決まっている。深呼吸をして、心の中で、女生徒の解答が正しいことを祈りつつ、投げつけられた解答を書き写した。もう一度教室を振り返ると、生徒たちはそれぞれ自分の答えと比較して頷いたり、ペンで書き直したりしているのが見えた。
「よろしい」
先生が満足げにそう言ったため、井上はほっと息を吐き、心臓をまだどきどきさせながら自席へ戻った。着席するときに、隣の女生徒に向かって、
「ありがとう」
と小声で囁いた。
「えっ」
彼女はとても驚いた表情でこちらを見返してきた。まるで、礼をされるいわれはないと言うような顔だ。しばらく井上を見つめたままでいたが、やがて何かを思いついたのか、空中に“?”を作り出して、そっと井上の机に向けて放った。それが軌道を描くのを井上が目で追うのを見て彼女はさらに驚いた様子だった。
その後の授業は最後まで平和だった。ただし隣の生徒は最後まで井上の方を、口をうっすらと開けたまま見つめていた。
終業のチャイムが鳴って授業は終わった。小杉先生が教室を出て行くのと同時に彼女は席を立ち、井上に向かって短く呟いた。
「来て」
言うなり彼女は井上の返答も聞かず身を翻して教室の外に出て行ってしまった。仕方なく井上も後に続く。廊下に出て行った。彼の背中が教室中の好奇の眼差しを受けていたことは彼が知る由もない。
廊下に出て左右を見回すと、例の生徒と思しき姿が向こうの曲がり角を曲がったのを見つけて、見失うまいと少し早足になって追いかけた。その角を折れた途端、危うく彼女と正面衝突しかけて何とか踏み止まった。そこは人気のない廊下だった。体勢を立て直して、「何か用かな?」と井上は彼女の顔を見上げた。そしてその瞬間、井上は時が止まったような錯覚に陥った。
この女生徒は、なぜか井上に秋の印象を与えた。冷たい風と、濡れたアスファルトのにおいがした。しかしその感覚は一瞬のうちに消え去り、現実にはただの無機質な廊下と、目の前にクラスメイトがいるだけだった。
改めて彼女をまっすぐに見ると、教室で隣から眺めていた時よりもずっと美しいと思った。黒くて艶のある長い髪。初雪のように清らかな白い肌。吸い込まれてしまいそうなほど綺麗な茶色い目。どれをとっても非の打ちどころがない美貌は、井上の心を震撼させた。彼女は口を開いた。
「君、さっきの、見えていたの?」
「さっきのって?」
「例えば、私が放り投げたマークとか」
「ああ、うん。一応、見えていたよ。おかげで命拾いしたよ」
改めてありがとう、と井上が言うと彼女は「どういたしまして」とくすっと笑った。
「どうしてみんなには見えていないのかな」
「そうじゃなくて、むしろどうして君には見えているの?」
「そんなの僕が知りたいよ」
彼女はそこで考える仕草をした。
「不思議なこともあるのね」
「本当だね」
「とりあえず、君は、このことを口外しないって、私に約束してくれる?そうじゃないと、」
彼女は井上に顔を寄せてきた。井上の心臓が再び跳ねた。
「……よくないことが起きるかもしれない」
井上はごくりと生唾を飲み込んだ。
「約束するよ」
どうにかして井上が声を絞り出して返事をすると、彼女は微笑んだ。
「私の“思考”が見える人は君が初めて。これからも仲良くしてくれたら嬉しいな」
彼女はその場でくるりと一回転してみせた。それから不意に眉根を寄せて思案するように、
「私たち、どこかで会ったことがある?」
と訊いた。井上は、特に人並み外れて記憶力がいいとかそういうことではないけども、このように美しい女性ならば、見かけるだけならまだしも、会ったことがあるならそう簡単に忘れることはないのではと思い、
「いや、会ったことはないと思うよ」
と答えた。このとき、井上は彼女から、先ほどとは違うイメージを思い起こさせられた。今度は、夕日を背にした笑顔の香りがした。
「そういえば、自己紹介がまだだったよね。私の名前は黒田闇蜜。どうぞ、よろしくお願いします」
彼女はぺこりと頭を下げた。井上は自分の名前を告げた。
「井上くん」
「何?」
「よし、覚えた。それじゃ、今日の残りの時間もお互い頑張ろう」
そう言って彼女は駆け足で戻って行ってしまった。井上はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、始業の鐘が聞こえて大急ぎで教室まで戻った。幸い、教師はまだ来ていなかったが、クラスの大半が井上と闇蜜を交互に見てニヤニヤしていたのは言うまでもない。
***
放課後。特に学校に残ってすることもないので、井上は早々に帰ることにした。靴を履き替えて外に出る。向こうのビルに反射した夕日の眩しさに目を細めた。
「井上くん」
後ろから声がした。振り向くと、闇蜜だった。
「黒田さん?」
「井上くん。一緒に帰ろう?」
そう言って可愛らしく首を傾げた闇蜜が夕日に対して逆光している姿は、井上の心を大きく揺さぶった。しかもその姿は、井上に奇妙な既視感を与えた。誰かが夕日を背にして笑っている、そんな情景。
「井上くん?」
彼女の声が井上を現実に引き戻した。井上は彼女の目を見て、
「うん。一緒に帰ろう」
と答えた。二人は並んで歩き始めた。
そのまましばらく沈黙が続いた。よく考えると、女の子と共に下校するなんて経験はほぼ無かったと言えるため、井上は少し緊張していた。隣を歩く闇蜜の横顔は煌いていて、彼女の髪は夕日を受けて揺れていた。
「井上くんって、本が好きそう」
唐突に闇蜜が口を開いた。言い当てられて井上はどきっとした。
「どうしてそう思ったの」
「だってそんな顔してるもの」
そう言ってくすくす笑う。確かに本は好きだ。小さい頃からよく図書館に籠ってたくさんの本を読み耽ったものだ。
「黒田さんは?」
「私も好き。特に、外で読書するのが好き」
「じゃあ黒田さんは晴れの日が好きなのかな」
「どうかな。もちろん晴れの日は外で本が読めるから気持ちがよくて好きだけど」
闇蜜は井上を見つめた。
「でも雨の日も好きかも」
「どうして?」
「どうしてって、理由ははっきりしないけど。なんだか雨の日って、人の温もりを感じることができるから、かな」
「ふうん」
人の温もり、か。寒い日ほど人のいる暖かさがいつもより感じやすいということかな。
「ところで黒田さんは数学が得意なの」
「うん。井上くんは見ていたから知っているでしょう?」
「結局、あれはいったい何なんだい?」
「私の“思考”よ。どういうわけか、数学や物理や化学なんかについて考えているときに、コンピュータみたいに自分の頭の中が自分に見えるようになっているの。普段の生活ではそんなことないんだけどね」
「それじゃあ、数学や理科が好きなんだね」
すると闇蜜はぱあっと顔を輝かせた。
「大好き! 私ね、ずっと小さいときからパズルとかが好きでよく解いていたの。それで本もたくさん読んで算数とか数学とか科学については知識じゃ誰にも負けない自信があったの」
そして今度は少し小声になって、
「でもね、文系科目はそんなに得意じゃないの。数学のように定義がはっきりしていればいいんだけど。それに、暗記の量も半端じゃないんでしょう?」
「そういうものかなあ」
「そういうものなのよ」
闇蜜は溜息を吐いた。しかし、すぐに背筋を伸ばして微笑んで、
「でも、今年からは苦手な文系科目も克服するの。ね、一緒に頑張りましょう?」
「もちろん」
井上も笑顔で返した。
気が付くと、二人は井上がいつも通る公園の近くまで来ていた。背の高い木が林のように生えているのが見える。
「黒田さんの家はどの辺りなんだい? 僕の家はもうすぐなんだけど」
「井上くんもこの辺りなの? じゃあ家の前まで一緒に行く」
無意識かわざとか、闇蜜は井上の前半の質問には答えなかった。二人は歩き続けた。そして井上の家の前までやってきた。
「それじゃあ、また明日」
「本当に、君の家まで送らなくてもいいのかい」
「平気。本当にすぐ近くだから」
笑顔で「ばいばい」と手を振って彼女は歩いていく。井上はその後ろ姿をただ見つめることしかできなかった。