<私>の日常
私は、生まれつき身体が弱かった。
体育の授業はほとんど見学。激しく動き過ぎると喘息の発作が酷くなるからだ。流行病は誰より早く罹るし、お陰でお布団がお友達である。
そんな私が、必要さえなければ外に出るのも躊躇するような引き篭もりになるのは当然の事で…………。
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キーンコーンカーンコーン
「皆さん、報道で騒がれているのでご存知だと思いますが、最近財閥の令嬢や子息を誘拐し、金銭を要求するといった事件が多発しています。」
教壇に立つ担任の先生は、上品な薄化粧顔を不安で曇らせて呟く。教室全体が深刻な空気を帯びる中、私はどうでも良さげに別の事を考えていた。今日は待ちに待った発売日。続きを半年前からずっと待っていたのだ、あの真相が明かされるとなるといてもたっても居られない。私的にはレオナルドが犯人だと信じて疑わない。だって、自ら鍵を取りに席を外した時間のロスがあるし、何より誰も知らないであろうロイドの死亡推定時刻をエドガーだけにはっきりと言い放ったからだ。奴が犯人でなければ誰が犯人になりうるだろうか、いや、奴が犯人に違いない。私の目に狂いは無い筈だ………。
「……いつ皆さんが、被害者になるか分かりません。身の回りの警備を強化するなど、日頃から対策をしておきましょう。……下校の際はくれぐれも気をつけてください。」
起立、礼、という言葉の後騒がしくなる教室。基本考え事に耽っていればこの手の長話は短く感じるな、と納得しつつ席を立つ。
"俺、この前いいSP雇ったんだ""そう…私も雇ったほうがいいかしら""私、今日身に着けているものすべてにGPS機能をつけましたわ"という会話を横目で聞き流しながら、私は早々に教室を後にする。
大体、そう言うなら騒ぎが落ち着くまでの数日間学校を閉鎖すれば良いのに。
エレベーターがなかなか来ないので、私は腹立たしくなって余計な事を考えてしまう。今日は新刊早く読みたいんだよ早くしてよとイライラしつつ、1階のまま点滅しているランプを睨みながら、無意識に足踏みをしていると、横から声がした。
「ありす」
ひょこっと、私の顔を覗きこむ茶色い瞳。短く切り込まれた群青色の髪は頬に沿ってシャギーにしており、童顔を引き立てている。彼女の名前は西園寺ひみ。私のことを"すべて"知った上で仲良くしてくれる数少ない友人だ。
ひみは不思議そうな顔で首をかしげ、指を口元に持っていき、「すっごく、フキゲン?」と呟いた。……彼女は属に言う不思議ちゃんである。
「うん、ちょっとね」
「あっ、また新刊出てる、とか?」
「………」
「………」
「…………よく分かったよね、流石私のソウルメイトッ………!」
私は魂レベルで同士とシンクロした喜びを噛み締める様に、予想が当たった事でどこか得意げなひみと渾身のハイタッチをする。勿論周囲に人がいない事は確認済みだ。
チーンという音でハッと我に帰る。
あぶない、あぶない。ここは公共の場だ。落ち着け、落ち着くんだ、私、と唱える。どうやらやっとエレベーターが来たようだ。
――改めまして、自己紹介を。
私の名前は、神夜ありす。
由緒正しき神夜家の長女だ。
家族構成は両親と兄と弟が一人ずつ。神夜家は代々文武両道、品行方正……と言われており、周囲からの期待を一心に受けている家系である。しかし実質評価を受け、讃えられるのは跡取りだけ。家は兄が継ぐことが決定してからは、両親が私達に幼い頃から無言の圧力で押し付けていた、"人に称賛されるようないい子でいなければいけない"という空気が薄れていった。
だから、という訳ではないが私はこうしてのんびりまったり、趣味に没頭できるわけだ。
――暴露してしまうが私は正真正銘、重度のオタクである。それはもう、好きなジャンルの新作は毎日欠かさずサイトでチェックして、数個限定品なんて血眼で深夜待機して勝ち取ったり、毎年夏と冬に行われる祭典には必ず出席するほどの。
だが、私の通う学校は全国単位で有名な所謂お嬢様学校と言うやつで、サブカルチャー的なものに免疫のないお嬢様お坊ちゃんしかり、そういうものを低俗的とみなしている人ばかりなので、"変わり者"の私は趣味を曝け出せる相手なと沢山居るはずもなく、放課後はすぐ帰宅して通販で取り寄せた漫画やゲームを一人寂しく漁るなど(たまにひみ※ソウルメイトと熱い討論を交わしたりする)日々ひたむきにオタクである事を隠し続けているのである。
…何故ならわたしは自分をそうした家庭事情を理由に、"他人に誇れるいい子"という非の打ち所がないお嬢様を幼い頃から演じてきたせいで、周囲からは"優秀なお嬢様"像が固定してしまい、本当の自分を初等部からの付き合いのクラスメイト達にすら曝け出せなくなったのだ。
お陰でまともに話せるのはひみくらいしかいない。
そういえば、とエレベーターの中でひみが思い出したように言う。
「……さっき、せんせーが言ってた事なんだけど、」
「………ああ、アレのこと」
私は、興味なさげに返答する。だって、財をもつ者が狙われるのは世の常だ。今更騒ぎ立てる程のものでは無いだろう。
「ありすは興味無いってあんまり、聞かなかったみたいだけど、アレ、いままでとは、色々、ちがうみたいだよ。」
「違うって、何か?」
「……誘拐犯の話。」
突然声色を変えたひみに、ほんの少し慄きながら、エレベーターの到着音を聞く。着いたようだ、歩みを遅くさせる。
「……せんせーの話によると今までの被害者は、全員で三人。一人目は中小企業の社長の一人娘。学校から帰宅中に拉致、そのまま金銭を要求された後、払ったにも関わらず、翌日変死体で発見。数ヶ月後、二人目は大手企業の会社員の次女。これは拉致した後、すぐに殺されたみたい。金銭は要求せずそのまま逃走。その数ヶ月後にはうちの学校生徒。家は大手食品会社会長の長女、だったと思う。この子も拉致されて金銭を受け取ったあとすぐ殺されてる。」
……戦慄とした。と同時に先生の話を右から左に受け流したことに後悔した。
思った以上に凄惨な事だったので思わず顔が青ざめる。世間ではお金持ちの子供は世間知らずで浅はか、と罵られることもあるが、ほんとにぐうの音も出ない、と独りごちに自嘲する。
「…それでね、この事件が特殊に扱われてるの、その変死体のせいなんだけどね、」
迎えの車はまだ来ていない。ロココ調の装飾が施された広い昇降口のソファに腰掛ける。ひみの顔はさっきよりも青い、気がする。
「……身体中の血が、一滴残らず抜かれてるって。」
――
バサバサバサッ
暗い裏路地に、黒ずくめの私が一人。
黒い鳥がゴミ溜めにたかる。
私は、鴉がソレを啄むのを無表情で眺める。
―ガアッガアッガアッ
「……ちょっと、君、いいかな?」
肩を掴まれ振り向けば、辛辣な疑念の瞳で此方を見据える青い服を来た男、二人。
………あぁ、警察、か。
頭でぼんやり、そう呟いた。
……私にとって世界とはつまらないもので、手にしようとすれば何でも手に入れられる玩具箱みたいなものだった。
昔から、私は人が羨むものを何でも持っていたらしい。
二十五年前、医師夫婦の間に一人息子として生まれた私は、子思いな夫婦に溺愛されて育った。元より勉学に熱心だったため、中学高校と、有名新学校に首席で合格し、両親が海外へ研究の為一生遊んで暮らせるような財産を私に残したあと、父の後を追い医科大学に現役で入学すると、めきめき才能が開花し、卒業と共に教授免許を取得した。不満など一切有難い、私の日常。女にも困ることはなく、昔から頻繁に好意を持たれ、興味がないからと告げるも後を絶たず、そう、あのときも単なる思いつきから始まった。
私は勉強は昔から好きだったが、恋愛というものにどこか抜けていた。
というのも異性に、昔からなんら興味も関心も湧かなかったのだ。しかし歳を取るにつれ、周りの友人が着々と結婚したり交際しているのを見て、興味も関心ももたずむしろ"それでいい"と落ち着いている事を変わっていると友人に指摘された時、それは次第に疑念に変わりつつあった。そもそものきっかけは4年生の時人体解剖をした時の事だろうか。
私の担当した死体は、女の身体だった。
生まれて初めて、女の身体を見た。
一年時に生物学で男と女の身体についてひと通り学んではいたが百聞は一見に如かずだろう。只々、驚いたのだ。同時に学問的なのか性的なのか曖昧な興味が胸に渦巻き
その時私は閃いたのだ。
"私が恋愛に無頓着なのは、女の身体に対してなんらかの理由/要因で魅力を感じないからかもしれない"
ただ、死んでいては確かめ様もないので、"生きた女"でその根本的な理由を探って確かめて見たかった。
私には自分がおかしい、と感じる感情さえ持ち合わせていなかった。正確には非常識だと感じてはいたが、生まれついたプライドや頑固さがそれを妨げた。だって、疑問を解くことこそ私の生き甲斐であり、培ってきた経験上胸に抱いた疑念は一つ残さず解消しなければ気が済まなくなっていたからだ。
―そしてその日は訪れてしまった
美しい満月の夜だった。
異変を感じたのはその日の朝から。ひどい喉の渇きを感じて朝目覚めると、いつものようにミネラルウォーターを飲んだ…渇く。結局飲んでも飲んでも渇きが癒されることなく、空っぽの2リットルのペットボトルをゴミに入れた。
夜、生徒の弁論用の台紙に目を通すのに消灯時刻までかかってしまった為、夜道を急いでいた帰り道。電車の時間をことごとく逃したため深夜になってしまい、早く帰ろうと息を切らして回り道をして裏道を通った私は、自宅であるマンションの建物と建物の間に何かが蠢いているのを見かけた。
大きなゴミバケツの陰に隠れて、体育座りの少女が一人泣いていた。
よく見ると全身に痣がある。家出、してきたのだろうか。かすかに鉄の匂いがする、
?
急に視界がぼやけた。眼鏡が曇ったのだろうかと服の隅で軽くふいた。霞みはひどくなる。
まともに立っていられない、意識が朦朧として、ふと空を見た。
…頭上の明るい、月がぐにゃりと、歪んだ。
…そこから先の記憶はない。
気が付いたら、私はマンションの自室にいて傍には気絶して両手を縛られた痣だらけの少女が横たわっていたのだ。
??
なにがなんだか分からなくなった私は、とりあえず落ち着こうと洗面台へ向かった。
鏡を、見た。
すでになんだか、気分が悪くて、ひどい頭痛と吐き気は治まらなかった。
そこには眼鏡をかけた、いつもと変わらない顔色の悪い自分の顔が映っている。
はずだった。
―――目の色が、違ったのだ。
「ひぃ…っ!」
両目は暗闇では室内では狂気すら感じさせる発光色の紫色。私は恐ろしくなって思わず壁に凭れるようにわなわなと崩れ落ちた。一瞬にして自分がこの世のものではないように感じ、全身を流れる血、その余すところなく、ドクドクと急速に、巡っている血液そのものが異端に感じられた。
――キモチワルイ。
はっと、人の気配を感じた。
気絶していたはずの少女が、こちらを凝視していた。
少女は、やはり私をさげずんでいるように身体を小刻みに震わせていた。
―――この、化け物っ…!
少女はありったけの声を出して、私に対抗した。
私に距離を取りながら言い放つ。
ま、まってくれ、誤解だ。自分でも何が何だかサッパリで…!
少女を落ち着かせようと、伸ばした手を、恐怖と警戒心で半狂乱になった少女が噛みつく。…自分の親指と、私の爪でとっさに引っかかれた少女の唇から、血が、
とたん、心臓が高まる。
ドクンドクンドクンドクン…!!!有り得ない速さでビートを刻む心臓とともに、意識が遠のいていき…
――
「…お、おい、何をするつもりだ…やめっ……!ぎゃあああああっ!!」
私は牙をむいた。私を悪に仕立て上げようとした世界に。
私は、あの少女を殺してしまった。抵抗しようとした少女の首筋めがけて、その血を一滴残らず吸い尽くして。飲み干した後は、何故かカラカラだった喉の渇きも満たされていた。何かの病気のせいだと助けを求めるように呼んだ警官も、こちらを理解するふりをして私を送検しようとしたので、噛み殺した。
私が悪かったのだろうか??
私はその時までなんの不自由もなく、誰にも迷惑をかけず、律儀にものはこなしてきたし、友人や周囲の人間からの信頼も厚かった。孝行の良い者は他より優遇と恩恵を受けるべきではないのか?
…あの時のことが、未だに自分がやったこととは思えない。
その後決まって同じ満月の夜に発作が起き、たびたび抑え付けようとしたが、数か月後たまらず、また一人殺してしまった。
しかし、私のようにやるべきことをきちんとこなし、敬意を置かれるほど世界に認められ、愛されてきた私が、あのような事を普通するだろうか?
――有り得ない話だ。
だって、わたしが、ふつうの"人間"である、わたしが、
「…ま、待ってくれ、たのむ…いのちだけは…!!!」
こんな風に、
ブチィッ…!
「あああああああああああああああああああ!!!」
――"人の生き血を、一滴残らず啜りつくすなんて。"
私は、最初の警官の血を啜りつくした後、あらかじめ腱を切って転がしておいたもう一人の警官の命乞いも聞かず、首筋に噛みついた。
―甘い。
ジュルッ…吸い付くたび、心臓が歓喜で高まる。
そうだ、私は病気なのだ、満月の夜に起きる発作。血を求め、その味に狂ってしまう奇病。
これは、報いだ。原因不明の"病"に犯された、哀れな私を、貶めようとしたとした世界への。
――
血で汚れてしまったコートを、ゴミ溜めに投げ捨てる。
発作が起きて、"事故"で三人目を殺してしまった時、私は病を完全にコントロールしていた。自分で欲しいときに、欲望の迸るまま血にありつくことができるようになった。
…目の前の凄惨な光景を一瞥する。
もう十分だ。と踵を返した先に一人の女がいた。
女は、俺を真っ直ぐに見てくる。まるで愛しい恋人を見るように、世界に貴方しか映らないと純愛に狂った女のように。女は、鮮やかな金髪を二つに高く結い上げて顔を薄暗いベールで隠していたが、その思わず凍りつくほどの美貌は、ありありと見て取れた。
「…あら、結構な男前じゃない。直接会いに来て正解だったわ。」
女は、ベールの上から手を口元に持っていき、クスクスッと形の良い唇を歪めて笑うと、血まみれで横たわっている警官を見つけ、何が可笑しいのかさらに愉快そうに笑う。
「……あらあら、驚かせちゃったかしら?でも貴方があんまりにも、滑稽で思わず、ね?気分を悪くしたのなら謝るわ、ごめんなさい。」
私の中で警告の鐘が鳴った。
"この女に関わってはいけない" "殺られる前に殺れ!"
そう思うや否や、私の身体は勝手に動いた。女の無防備な首筋めがけて。
鋭く尖った牙をのぞかせて、一閃。
ブツッ…。
「…!!?、あ、う?あ…??」
首筋に熱い感覚。
先手必勝を打ったつもりだった私は、目の前に女の姿がないことに気が付く。
……そして、耳のすぐ近くで聞こえる、耳障りな音。
ジュル…!
「え、うう、あああっ…」
女の牙は、私の首筋に深く食い込み、脈打つ血液を貪っていた。
瞬時に、殺される…!と思った。
「い、いいやだ……!!やめ、やめてくれ…!私は悪くない…悪いのは病だ…、やめろ………ぐあっ!」
構うことなく、反論するだけ女の牙は深く食い込んでいく。
熱くて、痛くて、気持ち悪くて、もどかしくて、早く、終わりたくて。
…でもどこか満たされた自分がそこに、いた。
――
ドサッ
死ぬ間際ギリギリの量を吸われたらしい。その場に放り出された私は、立ち上がることもできず、朦朧とした意識で横たわっていた。
女はたった今ディナーを食べ終えた貴族のように品のある手つきでハンカチで口元をぬぐっている。
「…ちょっと、強引だったかしら。でも貴方が……そんな肉食系だとは思わなくて。つい、おしおきしたくなっちゃった。」
うふふっ、頭上で女は上機嫌で語りかけてくる。そして突然、あ、と思い出したように付け加える。
「ジルの事は知っているかしら?」
ぎくりと、息絶え絶えな私のわずかな動作さえ見破ったように、肯定と受け取った女は、続ける。
「それじゃあ遅れまして…ボンソワール?私の名はクロエ=エクリプス。貴方がお世話になったジルの主人。黒魔術師であり、吸血鬼〈ヴァンピール〉よ。」
そういって、横たわる私の前で女…クロエ=エクリプスは、黒いスカートを指で軽くつんで、ドレスを着た貴婦人のように優雅なお辞儀をした。