トワの大いなる学習帳:「チョコレート」
「とりあえず一口食べてみろって」
「拒否する」
俺が口元にチョコレートを近づけ、それを受けて少女が淡々と遠ざかるという奇妙な光景が、先程から壊れたフィルムのように白い部屋の中で繰り返されていた。後ずさるあどけない少女ににじり寄り、嫌がるものを口元に近づける――ふと冷静に自分の一連の行動を振り返ってみるとこれは非常に非道徳な、倫理に反した状況なんじゃないかと内心俺は焦り始めていた。もしこの部屋が他の誰かに監視されていて生中継でもされていようものなら俺は一生“怪人チョコレート男”としてのレッテルを背負って生きていかねばならなくなる。少女に近づき懐からおもむろに取り出したチョコレートを勧める現代の怪人、社会の闇だ。俺は一旦気を落ちつかせるべく、また世間の皆さまへの弁明も兼ねて立ち止まり手を広げた。
「なんでそんなに嫌なんだよ」
「明らかに邪悪な色をしている」とトワは顔をしかめた。
前回の訪問で無知な彼女にブラックコーヒーを飲ませたところ、彼女がコーヒーの苦さでおかしくなるというちょっとしたハプニングがあった。今回はその時の釈明とお詫びも兼ねて甘いミルクチョコレートを持ってきたのだけど、どうやら彼女にはチョコレートの色味からコーヒーと類似の危険物として判断され警戒されてしまったようだ。しかし今引き下がったら俺も彼女の中で危険物指定されたままになってしまう。それは単に友好関係においても、あるいは未知の空間に隔離されている現状を考慮した打算的な話としても好ましいとは言えなかった。そのため俺はこうして汚名返上に躍起になっているのだ。決して背徳的な行いに興じているわけではない。
「コーヒーとは全然違うぞ。美味いぞー」と俺は手に持った板チョコを一欠けら割って、口に放り込んでみせた。
「それ、コーヒーの時も言った」と少女が眉を顰める。確かに言ったかもしれない。
「匂いが違うだろ、ほら」
食わなくて良いから嗅ぐだけ嗅いでみろ、と俺は少女に警戒されないように距離をとりつつ一欠けら手渡す。仕方なしに受け取ったトワは指先で摘まんだそれを爆弾でも扱うかのように慎重に鼻先に近づけ何度かおっかなびっくりを繰り返した後、「違う」と呟いた。
「前のはこう、刺激的で風味のある香りだったけど、今回のこれは違うだろ。明らかに甘い匂いがするはずだ」
「甘い?」と少女が首を傾げる。
「あー甘いというのは、つまりだな・・・」
ここで間違えてはいけない、と俺は思った。ここで選択肢を誤るとこのデリケートな心理ゲームはバッドエンドに直行するだろう。ゲームオーバーで終わるどころかディスクも爆発するしブレーカーも蒸発するレベルのバッドエンドだ。細心の注意を払って答えなくてはならない。
「恋だな」と俺は言った。プレイヤーが頭を抱える光景が脳裏に浮かんだ。
「恋?」
「そう。恋とか愛とか、そういったものも一般的に甘いものと表現されるんだ」
「わからない」と少女は疑問を重ねた。
「好きって分かる?」
「好ましいということ?」
「そうそう。まぁ言ってしまえば恋ってのはそういうようなことだよ。それで、恋における“甘さ”ってのはつまり、“分かり合っている”とか“分かり合おうとしている”状態のことを指すんだよ。逆にコーヒーの苦さ、ほろ苦さというのは分かり合えないすれ違いの部分に当たるんだ。つまり、コーヒーとは真逆の要素が“甘さ”、そしてチョコレートなんだ」
スラスラと言葉を続けている最中、俺は甘いものが苦手な友人がケーキショップの前を通った時「私はこいつらとは一生分かり合えないんだな」と悲しそうに言っていたのを思い出していた。もし少女が甘味を好きでは無かったら俺もトワと一生分かり合えなくなるかもしれない。人生には大きな決断をしなければならない時が必ずやってくると言うが、まさかその賭けの命運を一口のチョコレートに委ねることになろうとは思ってもみなかった。指輪物語も真っ青な大スペクタクルだ。
無垢な少女は意外にも俺の出任せを真摯に受け止めたようで、手元のチョコレートを見て何やら考えていた。
「それに、俺とトワの関係も分かり合うための関係だろ?トワが質問して、俺がそれに返答する。それは分かり合うための行為だ。このチョコレートの甘さはまさにこの空間のこの関係においてうってつけのものなんだよ」と俺は駄目押しした。
トワが感心したように俺を見る。その感心が俺の言葉に感銘を受けたからなのか、それとも淀みなく繰り出される出任せの出来の良さに対してなのか、俺には推し量ることが出来なかった。
少女は指先で支えていた小さなチョコレートの欠片を様々な角度で観察した後で、意を決したようにそれを口に運んだ。
「・・・好ましく思う」とトワが言った。
「それこそがチョコレートさ」と俺は笑った。
今日学んだこと
チョコレート・・・分かり合った自己と他者のようなもの。コイの味がする。
・見た目ほど邪悪では無い。
・もう一度食べたい。