烏と兎(5/19編集)
(腹が減っては戦はできない、だろう?)
「ねえ元就さん、最近ガソリンの値段が少し下がっていますね」
「そうだね」
「あの、今度連休にどこかに連れてって欲しいなあって……だめ、ですか?」
この世で最も愛している大切な存在に、可愛らしくお願いされる事を不快に思う男が、一体どこにいるだろうか。
駄目なはずがないじゃないかといいながら、柔らかい髪を撫でてやれば、小さくて可愛い動物みたいに大きな目を細めて嬉しそうにするものだから、思わず抱きしめてしまった。
一瞬びくりと反応した彼女だったが、すぐに状況を飲み込んで逆に自分から擦り寄ってくる。
彼女も今年で十八歳、小さいだの小動物だのという比喩はもうおかしいのはわかるが、こればかりは仕方がない。恋は盲目と言う魔法なのだ。
「かずらくん」
「なんですか」
「君はそんな些細な事になんて逐一気にしなくてもいいんだよ。いつだって好きな所に連れて行ってあげよう」
だってほら、私の仕事が仕事だからね。不景気だの円高だの、自分の周辺はそこまで関係がない。返さないというなら、ぶん取ればいいだけだ。
安心させるつもりで言ったのにどうやら彼女には逆効果だったようで、ぷーっと鬼灯のように頬を膨らましてしまった。
そんなところも可愛いのだけれど、できれば笑った顔を見ていたいものだね。
「あのね、世の中不況なんだよ」
「そうだね」
「いつ日本経済が破綻するかわかんないんだよ」
「それは困った」
「……もー……ちゃんと聞いて」
「ちゃんと聞いているさ、君の言葉は一字一句聞き逃したりしない」
おやおや。こんな言葉程度で真っ赤になってしまうだなんて初心だね。どうりでなかなか先に進めないはずだ。昔の私ならば、とうに食べてしまっているというのに。
紅いほっぺを指でつつけば、またぷぅーっと膨らんだ。可愛い可愛い。
「だから無駄遣いは駄目なんです」
「使わなければますます不景気になるんだけどね」
そう私がいうとさっきの勢いはどこへやら、萎んでしょんぼりしてしまう君。いけない、またやってしまった。
どんな君も可愛いけれど、今は笑顔が見たいな。ねぇ笑ってくれないか。
「君が心配する事なんて何もないんだよ」
「でも……」
「安心したまえ。私がついているだろう」
「……はい」
まだ納得しきっていないようだったけれど、次の休日にどこに行こうか振るとたちまち明るくなった。そうそう、そうでなくちゃねぇ。
言ってみたい所の候補を思いつくままぽんぽんと上げ、伸ばした指をそれにあわせて曲げていくところなど、本当にあどけない少女としか言いようがなくて。
これは本当に食べられるようにするまでに、もう少し時間がかけた方がよさそうだ。まあ、それも一興だがね。
「それでね、最後に!」
「かずらくん」
「なあに、元就さん」
「味見くらいはいいよね」
そう言ってから、私は紅潮して美味しそうになった柔らかい頬に噛み付いた。