ホット抹茶ラテ
フミさんは泣きじゃくっていた。僕はどうしていいのかわからなかった。ひとしきり泣きじゃくって泣きつかれた頃、彼女の頼んだ抹茶ラテがやってきた。抹茶ラテにそんなに時間がかかるわけが無い。ちょうどいいタイミングにマスターの心遣いを感じた。
フミさんはそれを一口飲むと、湯気で眼鏡が曇ってしまったのか、テーブルにあったおてふきで眼鏡を拭き始めた。
「落ち着いた?」
突き放した言い回しにならないように細心の注意を払いながら、僕は彼女に声をかける。
「はい。」
彼女はうつむいたまま答えた。
「すみません、ほんとに。泣いたりして。」
「僕が泣かしてるように見えたやろうね。」
笑いながら僕はそう言ったが、彼女は答えなかった。
今まで何度か挨拶を交わした程度で、そんなに面識があるわけではなかった。何をやっているんだろう僕は。冷めてしまった恋愛に決着をつけるのに「めんどくさいから代わりに行ってや。」などと言い放つような図太い神経を持った弟のために、こうやってほとんど面識の無い女性と喫茶店で向かい合わせに座っている。そんな自分が滑稽で、なんだか情けない気分になっていた。
弟のナオキの事以外、特に共通の話題があるわけではない。と、言うより僕は彼女の好きな事など何も知らない。五分早く店に来ていた僕のカップはすでに空になっていたが、彼女が抹茶ラテを飲み干すまでは席を立つわけにもいかなかった。
仕事の帰りなのか、フミさんはスーツ姿だった。弟には珍しく、あまり派手な印象の無い女性だ。小さな会社で事務をやっていると、以前弟から聞いた覚えがあった。
気まずい沈黙が流れていた。僕はそれに耐えきれず、カップを手に取り飲もうとするが、既に僕のカップは空になっている。悟られぬように僕はカップを置き、水の入ったグラスに手を伸ばした。
「お兄さん、バンドやってはるんですよね?」
沈黙に先に耐えられなくなったのはフミさんの方だった。
ひょっとしてこの沈黙の間、フミさんも何か話題は無いかと探してくれていたのだろうか?弟がそんなに僕の事をたくさん話しているとはとても思えなかったが、 彼女がそれを知っていて、話題にしてくれた事が少し嬉しかった。
「ライブとかもしてはるんですか?」
「うん、たまにやけど。」
「よかったら……またライブあるとき教えてください。行けたら行きますから。」
「ほんま?嬉しいわ。……あ、でもどうやって連絡したらいいんやろ?」
「そっか…………ナオキに聞くってわけにもいきませんもんね?」
やぶ蛇をつついてしまったと思った。余計なことを言わずに素直に連絡先を聞けばいいじゃないか。自分の不器用さが、また、情けなかった。
「気にしないでください。お兄さん、何も悪くないですから。」
察した彼女がフォローを入れる。これではどちらが慰められているのか分からない。
「メアド教えますから、メールで送ってください。」
「あ、うん。」
「赤外線通信できます?」
残念ながらそれも使った事がなかった。必要となるようなシーンも今まで少なかった。
携帯のメニュー画面を行ったり来たりするが、どこにあるのか分からない。
「ちょっと貸してください。同じメーカーやし、多分分かりますから。」
フミさんはそう言って僕の携帯を受け取ると、赤外線通信の使い方を丁寧に僕に説明し始めた。僕よりも数段慣れた手つきで携帯を操作する、細い華奢な指が印象的だった。僕より五つ六つ年下のはずだったがずいぶんしっかりした女の子に思えた。
弟はなぜ、こんな女性と別れる事にしたんだろうか。たとえ、付き合わなければ分からないような欠点が彼女にあったとしても、それを補ってあまりある美点が彼女にはあるように思えた。今までと同じパターンか、と僕は思った。どんなに素晴らしい曲を書くアーティストでも、同じCDを毎日繰り返して聞いていれば、いずれ飽きがきてしまう。どんな魅力のある女性でもしばらく付き合ってみれば、その美点は日常に変わり、当たり前の事としか思わないようになってしまう。きっと弟はそれを「冷める」の一言で片付けてしまうのだろう。そんな風にしか考えられない質の男なのだ。
「ほんとは結構前から分かってたんですよ。」
「え?」
フミさんは携帯を操作しながらそう切り出した。
「ナオキに、他にも彼女がいる事。」
「ああ……。」
「お兄さんは知ってはったんですか?。」
「いや……はっきりとは、知らんかったけど。」
彼女の問いに僕はそう答えるしかなかった。嘘は言っていない。確かに知らなかった。ただ最近のナオキの様子から大体の想像はついていた。
「あのさ、フミさん。」
受け取ったメールアドレスを見ながら、僕は彼女に話しかけた。
「ナオキは昔からそういうヤツやから、もう気にせんと、別のいい男探すのがええと思うよ。」
「そういうヤツ?」
「うん、……女に対してだらしないというか。」
「お兄さんに言われるなんてよっぽどですね?」
「うん。……よっぽどやねん。」
フミさんは、やっと少し笑ってくれた。
ひとしきり泣いたせいか、鼻の辺りが赤くなっていた。
外へ出ると、来る時にパラついていた雨は上がっていた。
駅まで送ると僕が言うと、フミさんは、
「ナオキにもそんな事言ってもらった事ないです。」
と言って笑った。
「あいつと違って僕はモテへんから、色々努力が必要なんや。」
そう言って僕も笑い返した。
我が家の最寄りの駅は、少し長めの階段を上るとすぐに改札口がある。カード入れをかざして改札をくぐるフミさんの背中に、僕は声をかけて呼び止めた。
「もし、話相手欲しくなったら連絡してや。僕、フリーやから、いつでも。」
当たるも八卦。違うな。下手な鉄砲……数撃ってるわけでもない。なんだかこのまま帰してしまうのが勿体ないような、淋しいような、そんな気持ちがしてとっさに出てしまった言葉だった。
「ライブ、聴かせてもらってから考えますね。」
笑いながらそう言って、少し深めのお辞儀をしながら僕に礼を告げて、彼女はホームに続く階段を下りて行った。放った渾身の矢はマトを逸れて、どこか遠くの方へ飛んで行ってしまったようだが、僕は不思議と悪い気はしなかった。
駅を出て振り向くと、ホームにフミさんの姿があった。
まだ鼻の赤い彼女は、僕を見つけると笑いながら小さく手を振ってくれた。