トラップ5
入院生活は正儀にとって快適というにはほど遠いものだった。まず9時30分に寝て朝6時に起きる習慣を作ることが大変だった。とにかくそんな早い時間に寝た経験がいままでまったくなかったからだ。眠れないので仕方なくロビーでたばこを吸うと看護師に怒られる。眠れなくてもベッドから離れないでくださいといわれても、じたばたすればするほど頭が冴えてくる。睡眠導入剤も環境によってその効力を変えるらしい。つまり病院のベッドというものは知らず知らずのうちに緊張しているのだ。この緊張を薬で緩和できる人はすぐ眠れるのだが、俺の場合はどうもいけない。きっと意識しすぎるのだ。
家にいたらこの時間ならまだ原稿の草案を考えているころだ。まず記事に書かなければいけない必要事項を整理して、それからレイアウトを見て字数を確かめてから記事の構成を検討する。平易な文章にどれだけ要点を盛り込むことができるか、が腕の見せどころである。たくさんの素案からどれがベストか決め、文字数にあった文章を展開していく。この瞬間が正儀は好きだった。
そんなことを考えるといまの俺はちょっと前とはまったく別人なのだ。原稿と闘っているときはよかった。なぜなら日々進歩があったし、なにより喜んでくれる読者や関係者がいた。だから最後の最後まで頑張れたのだった。ところがいまはどうだろう、担当医から原稿を書くことは禁じられ、本も読むことができない。しかたなく音楽を聞こうとしても、幻聴が音楽と同調し悲鳴をあげているように聞こえ、どうしても我慢することができない。この拷問のような生活にただ耐えなければいけない。終わりはいつ来るのだろうか。不安は日増しに大きくなっていく。その心配は現実のものとなっていった。この後正儀は坂を転げ落ちるように入退院を繰り返し、担当医が何人も変わり、あらゆる薬を試してみたが一向に良くなる兆候がなかった。当りまえだ、この病気は薬では治らない。この病状が現れた時点から正儀は考えていた。なぜ、俺の個性を叩き潰すのか、明るさを奪い、笑顔を歪ませ、仕事と友人を奪い、女の子を近寄らせない。
しかし、そんな状況でもいいことがあった。あれだけ吸っていたたばこをやめることができたからだ。だが、48キロの体重が68キロまで体重が増えたが、周りの人は太ったといわず、標準だ、という人が多かった。