ぷんくん
異様に沸点の低い男。わたしは彼を「ぷんくん」と呼んでいた。
どうして、そこまで嫌われているのかは、最後までよくわからなかった。
いまでもわからない。そもそも話をしたこともあまりない。雑談のグループにいたことがあるかも知れない。
その程度だ。
同じクラブの同級生。仮に「ぷんくん」としておく。
最初の違和感は、あの日だった。
おにぎりの入った大きな容器を運んでいたとき。
一人で持てる重さじゃない。横に長いプラスチックケースで、左右に持ち手がついている。わたしともう一人で、向かい合うようにしてそれぞれ持ち手を掴み、腕を伸ばしたまま、ぎこちなく歩いていた。
重い、というより、ずっと同じ姿勢で支え続けるのがきつい。
腕がじわじわと痺れてくる。指の感覚が少しずつ鈍くなっていく。
「一回、置こうか」
小さく声をかけて、すぐそばにあった水のケースの上に、二人でタイミングを合わせて、そっと乗せた。
ドン、と音を立てないように気をつけながら。
すぐにまた持ち上げるつもりだった。
あくまで仮置き。ほんの数秒、腕を休ませるためだけの。
そのときだった。
「そこに置いたら邪魔になるだろ!考えろ!」
空気を切るような声だった。
振り返るまでもなく、ぷんくんだとわかる。
声の大きさと語気の荒さが、場に対して明らかに過剰だった。
周りで談笑していた他のクラブのグループも、一斉に口を閉じてこちらを見る。
笑い声が、途中で切れたみたいに止まる。
誰も動かない。
わたしも、隣で持っていた子も、ケースに手をかけたまま固まった。
言い返す言葉なんて、出てこない。
「すみません」と言うほどのことかも、正直わからない。
でも、何か言わなければいけない気もして、口が半開きのまま止まる。
その沈黙を破ったのは、別の子だった。
「こっちに置いたらいいよ」
自然な声で、少し離れた別の水のケースを指した。
その子が軽くケースの端を持ち上げるのを合図に、わたしたちはまた二人で息を合わせて、おにぎりの容器を持ち上げ、移動させた。
腕に、さっきよりも重さが食い込む。
でもそれよりも、視線のほうが気になった。
ぷんくんは、動かない。
ただ、こちらを見ているが、おおげさにため息をついた。
正確には——わたしを見ている。
二人で運んでいたのに。
怒鳴りつけられたのも、視線を向けられたのも、わたしだ。
そのことに気づいた人は、たぶん何人もいた。
でも、誰も何も言わない。
「今の、ちょっとおかしくない?」
そう口に出す人は、いなかった。
空気が、そういう形に固まっていた。
なんとなく、全員が気づいている。
でも、それを言葉にした瞬間に、何か面倒なものが始まるのもわかっている。
だから、触れない。
そのまま、何事もなかったみたいに作業が再開される。
笑い声も、少し遅れて戻ってくる。
ただ、その音は、さっきよりもわずかに薄かった。
次に決定的だと思ったのは、文化祭の模擬店のとき。
綿菓子を買って、そのまま持って店に戻った。
中に入った瞬間、声が飛んできた。
「そんなもの持って店に入るな!」
店の中に、響き渡る声量だった。
一瞬で、空気が冷える。
場違いな怒鳴り声。たかが文化祭の模擬店だが、ぷんくんの言うことは正しいだろう。
だが、その言い方は正しいか?
お店にいた人もその時仕事していた人も、身内と言えば身内、ゆるい雰囲気だった。
正論でいえばぷんくんは仕事のシフトだった。なのに隅で喋っていた。
一気に店の雰囲気を凍らせて注意すること?
そのとき、入口のほうが少しざわついた。
下級生が四人、楽しそうに入ってくる。
手には、それぞれ大きな綿菓子。
ふわふわとした白やピンクが、店の中にふくらむ。
私は、反射的にぷんくんのほうを見た。
さっきと同じことを言うのか。
それとも——。
ぷんくんは、何も言わなかった。
一瞬、視線を向けただけで、すぐに逸らす。
注意する気配は、まるでない。
「先輩の後輩だからって、綿菓子おまけして貰いましたー」
下級生の一人が、弾んだ声で言う。
周りが「よかったね」と笑う。
その空気に、誰も違和感を口にしない。
でも、たぶん——
何人かは、同じことを思っていた。
さっきのは、何だったんだろう。
わたしにだけ、言ったのか。
それとも、たまたまなのか。
たまたま、が続くと、人は気づく。
でも、気づいても、確信にはしない。
確信にしてしまうと、扱いに困るから。
だから、みんな、少しだけ視線を泳がせて、
すぐに何もなかった顔に戻る。
わたしも、同じようにした。
綿菓子を持ったまま、立ち尽くしながら、
「まあ、いいか」と思うふりをした。
そうするしかない空気が、そこにあった。
彼は小さな会社の跡取りだと話していた。
わたしは、ときどき思っていた。わたしに権力があったら彼の会社をつぶしてやるって。
残念ながら彼の会社はわたしが潰す前に潰れてしまった。
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