第四話 言葉になるまでの時間
まだ揺れない心のランタンの灯し
第四話 言葉になるまでの時間
朝の海から戻ると、家の中には味噌汁の匂いが広がっていた。
雫が玄関を開けると、台所から母の声がした。
「おかえり。寒かったでしょう」
「うん、ちょっとだけ」
雫は靴を脱ぎながら答えた。
それだけのやり取りなのに、昨夜までとは少し違って感じた。声を返すことが苦ではなかったからだ。
居間のちゃぶ台には、焼いた鮭と卵焼き、それに湯気の立つ味噌汁が並んでいた。母は雫の顔を見ると、安心したように笑った。
「ちゃんと戻ってきたね」
「戻るって言ったじゃない」
「そうだけどね。あんた、ふっとどこか遠くへ行っちゃいそうな顔するときがあるから」
母は冗談のように言ったが、その言葉に雫は少しだけ胸をつかれた。
自分はそんなふうに見えていたのか。
黙っているだけのつもりでも、心ここにあらずの顔になっていたのかもしれない。
雫は席につき、箸を持った。
味噌汁をひとくち飲む。熱さが喉を通って、冷えていた体がゆっくりほどけていく。
「おいしい」
そのひと言に、母は「そう、よかった」とだけ返した。
しばらくは、食器の触れ合う小さな音だけが続いた。
気まずい沈黙ではなかった。けれど、雫の胸の中には、昨夜から少しずつ形になりはじめた言葉があった。このまま黙ってしまったら、また元に戻る気がした。
雫は箸を置いた。
「お母さん」
「うん?」
母も箸を止めた。
雫はすぐには続けられなかった。
何から話せばいいのか分からない。全部を説明できるほど、自分の中で整理がついているわけでもない。けれど、少しでも言葉にしなければ、たぶん何も伝わらない。
「私ね……ずっと、ちゃんとしなきゃって思ってた」
母は黙って聞いている。
「心配かけないようにとか、変に見られないようにとか。自分でも何が苦しいのか分からないのに、とりあえず平気な顔してればいいって思ってた」
母の目が少しやわらいだ。
「でも、平気なふりしてると、だんだん本当に何を感じてるのか分からなくなってきて」
そこまで言って、雫は息をついた。
言葉にするのはやっぱり難しかった。けれど、難しいままでも口に出したほうが、胸の奥は少し軽くなるのだと分かりはじめていた。
母は急かさずに待っていた。
それが、雫にはありがたかった。
「昨日、海に行って……ランタン見てたら、なんか、泣けてきて」
「うん」
「別に、何か大変なことがあったわけじゃないの。でも、何もないわけでもなくて。うまく言えないけど、ずっと胸に溜まってたものが、やっと一滴だけ出てきた感じで」
母はその言葉を聞くと、少し驚いたように、それから静かにうなずいた。
「そういうこと、あるね」
雫は顔を上げた。
母は笑っていなかった。茶化す様子もなかった。ただ、本当に分かるという顔をしていた。
「お母さんにも、あるの?」
「あるよ」
母は当たり前のように言った。
「若いころなんて特にね。何がつらいか分からないのにつらいとか、誰に怒ってるのかも分からないのに苦しいとか。そういう時期、あったよ」
雫は少し意外だった。
母はいつも、分かりやすく現実を見て、迷わず生きてきた人のように思っていたからだ。
「でも、お母さんは……ちゃんとしてたでしょ」
そう言うと、母は小さく吹き出した。
「してないよ。全然してなかった。あんたが思ってるより、ずっと不器用だったよ」
「そうなの?」
「そうなの」
母は笑いながら頷いたあと、少し遠くを見るような目になった。
「ただね、昔、おばあちゃんに言われたの。“気持ちは、すぐに言葉にならなくてもいい。ちゃんと言葉になるまで、少し時間をあげなさい”って」
雫は、その言葉を胸の中で繰り返した。
ちゃんと言葉になるまで、少し時間をあげなさい。
どこかで、自分はすぐ答えを出さなければいけないと思い込んでいた。何がつらいのか、どうしたいのか、ちゃんと説明できなければだめなのだと。でも、本当はそうではないのかもしれない。
母は続けた。
「雫が黙ってると、私は心配になる。でも、黙ってること自体が悪いわけじゃないんだよね。言葉になるまで時間がかかる人もいるし、それは弱いってことじゃない」
そのひと言で、雫の肩から少し力が抜けた。
弱いわけじゃない。
昨日から何度も、小さな言葉に助けられている。
海で聞いた言葉。
朝の散歩ですれ違った人の言葉。
そして今、母の言葉。
どれも大きな光ではない。
けれど、足元を見せてくれる灯しには十分だった。
「私、自分の名前、昨日ちょっとだけ分かった気がした」
雫がそう言うと、母は目を丸くした。
「名前?」
「うん。雫って、弱い感じがして、あんまり好きじゃなかった時もあったの。でも昨日、違うのかもって思った」
「どう違うの?」
雫は少し考えてから、ゆっくり言った。
「ずっと胸にあったものが、やっと一滴になって出てくること……みたいな」
母は何も言わずに聞いていたが、やがてふっと笑った。
「いい名前だね」
その言い方が、とても自然で、雫は少し照れくさくなった。
「今ごろ?」
「今ごろでもいいじゃない」
二人で少しだけ笑った。
窓の外では、朝の光がもうしっかり庭に差していた。
夜の気配は消え、台所の白い湯気が明るい中に溶けていく。
雫は思った。
言葉になるまでには、時間がいる。
でも、その時間を誰かが待ってくれるなら、人は少しずつでも話せるようになるのだと。
味噌汁はもう少しぬるくなっていた。
雫はそれを飲み干し、静かに息をついた。
「お母さん」
「うん?」
「また、うまく言えないときもあると思う」
母はすぐにうなずいた。
「いいよ。少しずつで」
その返事に、雫は小さく笑った。
少しずつでいい。
その言葉が、今の雫には何よりやさしかった。
この第四話で、
雫が自分の苦しさを少し言葉にする
母もまた迷ってきた人間だと分かる
「雫」という名前の意味が、さらに自然に入る
家族の中に“待ってくれる灯し”があると見えてくる
という流れになります。
次は第五話で、
雫が祖母のランタンにまつわる記憶をたどる話
へ行くと、かなり物語に厚みが出ます。
第五話 祖母のランタン
昼すぎ、雫は物置の前に立っていた。
朝から気になっていたのだ。昨夜と今朝、あのランタンに何度も助けられた気がした。それなのに、煤けたまま棚に戻すのは、どうにも落ち着かなかった。
物置の引き戸を開けると、乾いた木の匂いと古い布の匂いがした。
段ボール箱、使わなくなった扇風機、祖母が漬物を入れていた大きな瓶。
その奥の棚に、ランタンの箱が置いてあった。
雫はそれをそっと取り出し、縁側まで持っていった。
「何してるの?」
背後から母の声がした。
「ランタン、少しきれいにしようと思って」
母は洗濯物のかごを抱えたまま、ふっと笑った。
「おばあちゃんが見たら喜ぶねえ。あれ、本当に大事にしてたから」
「そんなに?」
「うん。停電になるたびに、妙にはりきってたもの。『よし、私の出番だね』って」
雫は思わず笑った。
「言いそう」
「言ってたよ。懐中電灯があるのに、わざわざあのランタンを出すの」
母は洗濯物を干しながら、くすくす笑っている。
「しかも火をつけるまでが長いのよ。芯がどうだ、油がどうだって、いちいち大げさで」
雫はガラスの覆いを外し、やわらかい布でそっと拭いた。
指先に、細かな黒い煤がつく。
その瞬間、不意に昔の夜がよみがえった。
まだ雫が小さかったころ。
夏の終わり、夕立のあとに雷が鳴って、家じゅうの電気がぱたりと消えた夜だった。
「きゃっ」
真っ暗になった居間で、幼い雫は母の服にしがみついた。
外では風が雨戸を鳴らし、遠くで雷がごろごろと唸っていた。
「大丈夫、大丈夫」
母はそう言ったけれど、声が少し上ずっていた。
台所では父が「懐中電灯どこだ」と戸棚を開けたり閉めたりして、余計にがたがた音を立てている。
そこへ、祖母がのんびりした声で言った。
「騒がしいねえ。電気が消えたくらいで、みんな大事件みたいな顔して」
「おばあちゃん、暗いよぉ……」
半べそをかく雫に、祖母は笑った。
「だからこそ、いいものがあるんだよ」
祖母は物置からランタンを持ってきて、慣れた手つきで火を入れた。
かちり、かちり、と金具が鳴る。
やがて、小さな火がぽっと灯った。
真っ暗だった部屋の中に、やわらかなオレンジ色がじわりと広がる。
それだけで、雫は少し息ができるようになった。
「ほらね」
祖母は得意そうに言った。
「大きな灯りは便利だけどね、こういうときは小さな灯りのほうが、人の顔がよく見えるんだよ」
父が苦笑した。
「母さん、そんなこと言ってないで、もっと明るいのないの」
「ないよ」
祖母はきっぱり言った。
「でも十分。あんた、転ばないで歩けるだろ?」
父は返す言葉をなくして、「まあ、そうだけど」と頭をかいた。
母がその横で笑いをこらえていた。
そのとき、玄関がとんとんと鳴った。
「おーい、無事かー」
聞こえてきたのは、若いころの吉岡のおじいさん――そのころはまだ“おじさん”だった――の声だった。祖母は「はいはい、生きてるよ」と大きな声で返した。
戸を開けると、向こうも懐中電灯を持って立っている。
「そっちは?」
「うちは大騒ぎよ。うちの孫なんか、暗いだけで泣きそうになってる」
そう言って吉岡さんが連れていたのは、まだ小学校にも上がっていない男の子だった。今ならきっと三十代半ばくらいになっているだろう。泣きそうな顔で祖母のランタンを見ている。
祖母は、その子に向かってにやりとした。
「どうだい、かっこいいだろう」
男の子はこくんとうなずいた。
「これ、魔法みたい」
「そうとも。ばあちゃんの秘密兵器だからね」
祖母は本気とも冗談ともつかない顔でそう言って、雫のほうを見た。
「雫、あんたも見な。暗い夜にはね、こういう灯りがひとつあるだけで、人は安心するんだよ」
「でも、暗いのやだ……」
幼い雫がそう言うと、祖母は少しだけ声をやわらげた。
「やだよねえ。怖いよねえ。でもね、怖い夜があるから、灯りのありがたさが分かるんだよ」
それから、雫の頭をぽんぽんと撫でた。
「暗いのを無理に好きにならなくていい。でも、灯りを信じることはできる」
その言葉を、雫はその夜は半分も分かっていなかった。
ただ、祖母の手の温かさと、ランタンの火の色だけは、しっかり覚えていた。
回想から戻ると、縁側にはやわらかな午後の日差しがあった。
手の中のランタンは、さっきより少しだけきれいになっている。
「どうしたの、急に黙って」
母が洗濯物を干し終え、雫のそばに来た。
「思い出してた。停電の夜」
母は「ああ」と声をもらした。
「吉岡さんのところの坊やまで来た夜ね。あの子、ランタン見て“魔法みたい”って言ってた」
「覚えてるんだ」
「覚えてるよ。おばあちゃん、得意満面だったもの」
母は笑って、それから少し目を細めた。
「おばあちゃんって、不思議な人だったよね。普段はのんびりしてるのに、誰かが不安そうにしてると、急にしゃんとするの」
雫はうなずいた。
「うん」
「自分が前に出るっていうより、“ほら、大丈夫だから”って空気を作る人だった」
雫は磨き終えたランタンのガラスを光にかざした。
向こう側の庭木が、少しゆがんで映る。
そうかもしれない、と思った。
祖母はいつも、何かを大きく変える人ではなかった。
でも、その場の空気を少しやわらかくしたり、怖がっている人の肩の力を抜いたりすることができる人だった。
それはきっと、灯しと同じだ。
世界を一度に照らすことはできない。
けれど、目の前にいる誰かを安心させることはできる。
そのとき、庭先から声がした。
「こんにちはー」
見ると、近所の文子さんが野菜の入った袋を提げて立っていた。
「きゅうり多く採れたから、持ってきたよ。あら、そのランタン、懐かしいねえ」
母が立ち上がる。
「でしょ。雫が磨いてるの」
文子さんは目を丸くした。
「へえ。おばあちゃん、喜ぶねえ。あの人、そのランタン持つと急に偉そうだったもんね」
「分かる」
母が吹き出し、雫もつられて笑った。
文子さんは縁側に近づき、しみじみとランタンを見た。
「昔、台風の日にうちまで持ってきてくれたのよ。“文子ちゃん、暗いと転ぶよ”って。ああいうの、ありがたかったなあ」
笑いながら話していた文子さんの顔が、その一瞬だけやさしく曇った。
雫は、その表情を見て胸があたたかくなった。
祖母はもうここにはいない。
けれど、こうして誰かの記憶の中で、ちゃんと灯ったまま残っている。
「いいわねえ」
文子さんが言った。
「物って不思議よね。残るだけじゃなくて、思い出まで連れてくるんだから」
雫はランタンをそっと膝の上に置いた。
「……ほんとだね」
それは古い道具だ。
少し重くて、手入れもいる。
けれど、ただの古道具ではなかった。
祖母の声。
停電の夜のぬくもり。
笑いながら行き来した近所の人たち。
怖かった夜に、確かにあった安心。
それら全部が、この小さな灯りの中に、まだ残っている気がした。
雫は静かに思った。
自分はこのランタンに、ただ照らされてきただけではない。
人が人を安心させる、その温かさを、知らないうちに受け取ってきたのだと。
そして今度は、自分も誰かにそうできるのかもしれない。
大きなことではなくていい。
派手な言葉じゃなくていい。
ただ、不安な夜にそばにいて、足元を照らせるような人に。
「雫」
母が呼んだ。
「それ、居間に置こうか。たまには見えるところに置いておきたいね」
雫はうなずいた。
「うん。そうしよう」
ランタンを抱えて立ち上がると、思ったより少しだけ重かった。
でも、その重さが、妙に頼もしかった。
居間の棚に置かれたランタンは、火がついていないのに、どこか部屋の空気をやわらかく見せた。
祖母の灯しは、まだ消えていない。
雫はそれを見つめながら、小さく笑った。




