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静かな海  作者: 浮世雲のジュン


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第三話 朝の道しるべ

第三話 朝の道しるべ


翌朝、雫はいつもより早く目を覚ました。


障子のすき間から、薄い朝の光が入っている。

まだ眠気は残っていたが、昨夜のような重さは少しだけ薄れていた。胸の奥に何かが残っている。なくなったわけではない。けれど、それはもう、ただの暗い塊ではなかった。


布団の中で小さく息を吐いてから、雫は起き上がった。


居間へ行くと、母が台所で味噌汁を温めていた。鍋のふたがことこと鳴り、湯気がゆっくり上がっている。何でもない朝の景色なのに、それが今日は少しやさしく見えた。


「あら、早いね」


母が振り向いて言った。


「うん。ちょっと、散歩してこようかなって」


母は驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。


「いいじゃない。朝の空気、気持ちいいよ」


「すぐ戻る」


「無理しないでね。朝ごはん、取っとくから」


そのひと言が、雫にはうれしかった。

どこへ行くの、何時まで、ちゃんとしなさい。そういう言葉ではなく、ただ戻る場所があるような言い方だったからだ。


雫は上着を羽織って、家を出た。


朝の空気は冷たかったが、夜の冷たさとは違っていた。眠ったままの町の上を、薄い光が少しずつ広がっていく。道ばたの草には露が光り、遠くで鳥がひと声だけ鳴いた。


海へ続く坂道を歩きながら、雫は昨夜のことを思い出していた。

ランタンの灯。

吉岡のおじいさんの言葉。

母の「言ってくれてよかった」という声。


どれも大きな出来事ではない。

でも、その小さなことが、たしかに自分をここまで運んできた。


海に着くと、昨夜とはまるで違う景色が広がっていた。

水面は青灰色に明るみ、波は静かに寄せては返している。夜には見えなかった防波堤の先まで、今はちゃんと見えた。空のはしには薄い金色が差していて、朝がいま生まれようとしていた。


「きれいだねえ」


不意に声がして、雫は振り向いた。


犬を連れた近所の女性が、にこにこしながら立っていた。よく見かける人だが、言葉を交わしたことはなかった。


「おはようございます」


「おはよう。珍しいね、こんな早く」


「ちょっと散歩です」


「そう。いいよね、朝の海。悩みがあっても、少しだけ小さく見えるから」


雫は少し驚いた。

その人は、まるで冗談のように笑って犬の頭を撫でた。


「もちろん、なくなるわけじゃないんだけどね」


「……はい」


「でも、人間って不思議よね。朝日を見るだけで、今日くらいは何とかなるかなって思えたりする」


そう言って、その人は軽く会釈し、犬と一緒に歩いていった。


雫はその背中を見送りながら、小さく笑った。

昨夜から、誰かの何気ない言葉ばかりが胸に残る。

けれど、今の自分にはそういう言葉のほうが、立派な励ましより深くしみる気がした。


防波堤の先まで歩き、雫は海を見た。


朝の光が少しずつ水面に広がっていく。

その光は強すぎず、でも確かに、夜の続きを終わらせていく光だった。


雫はふと思った。

灯しとは、ランタンの火だけではないのだろう。

母の声も、吉岡のおじいさんの言葉も、今すれ違った人の笑顔も、みんな小さな灯しだったのだ。

遠くまで照らさなくても、次の一歩を見せてくれる。

それで十分なのだ。


そのとき、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。

母からの短いメッセージだった。


朝ごはんできたよ。あたたかいうちにどうぞ。


雫は画面を見つめて、それからふっと笑った。


「ほんと、十分だな……」


誰に向けたわけでもなく、そうつぶやく。


すぐに大きく変わるわけではない。

今日から別人みたいに前向きになれるわけでもない。

それでも、朝の海を見て、家に帰れば温かい味噌汁があると思えるだけで、人は少し歩けるのかもしれない。


雫は海に向かって一度だけ深く息を吸った。

潮の匂いが胸に入ってくる。

昨夜より、少しだけまっすぐ立てている気がした。


「帰ろう」


そう言って、雫はきびすを返した。


道は同じだ。

家も同じだ。

けれど、歩く自分が少しだけ違っていた。


昨夜こぼれた雫は、ただの涙ではなかった。

それは、自分の本当の気持ちに触れたしるしだった。

そして灯しは、まだ小さいけれど、ちゃんと続いている。


朝の道には、もう迷うほどの暗さはなかった。


雫はゆっくりと坂を上り、家の見える場所まで戻ってきた。

窓の向こうに、台所の明かりがついている。


帰る場所がある。

迎える朝がある。

それだけで、今日という日は始められる。


雫は少しだけ歩幅を広げて、家へ向かった。

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