雪に閉ざされた森のアトリエで、氷の呪いを受けた騎士様を暖炉の前で温めています~「離れると死んでしまう」と彼が言うので、今夜も肌を合わせて眠ります~
窓の外では、世界を白く塗り潰すような猛吹雪が吹き荒れている。
ヒュー、ゴウウウウ……と唸る風の音は、まるで巨獣の咆哮のよう。
けれど、分厚い石壁と三重にしたガラス窓に守られたこのアトリエの中までは、その冷気は届かない。
パチパチ、と暖炉の薪が爆ぜる音が、静寂な部屋に心地よく響いている。
私は椅子に深く腰掛け、手元の刺繍枠に針を刺した。
銀色の糸が、ベルベットの生地の上を滑るように縫い留められていく。
「……よし、ここはこんな感じかな」
独り言が、温かい空気に溶けていく。
私の名前はノエル・マリー・ブランシェ。
この雪深い森の奥で、ひっそりと刺繍作家をしている。
人里離れたこんな場所に住んでいるのには、理由があった。
一つは、私が極度の人見知りであり、煩わしい人間関係から逃げ出したかったこと。
そしてもう一つは、私に「前世」の記憶があるからだ。
前世の私は、日本という国で、毎日満員電車に揺られて働く、手芸が趣味の普通の会社員だった。
常に時間に追われ、人の顔色を窺い、すり減るような毎日。
過労で倒れ、気づけばこの異世界に転生していた。
二度目の人生は、そういう喧騒から離れて静かに暮らしたい。
誰にも邪魔されず、好きな手芸に没頭できる生活がしたい。
そう願った私は、前世の知識、特に断熱や暖房に関する知識を絞り出して、この森に自分だけの城を築いた。
今の生活は、まさに理想そのものだった。
温かいスープ、ふかふかの毛布、そして美しい刺繍。
外の世界がどれほど凍えていようと、ここには私だけの楽園がある。
プツッ。
糸を切るハサミの音が響いた、その時だった。
ドサリ。
扉の外で、重たい何かが倒れ込むような音がした。
「……え?」
私は手を止めた。
風の音だろうか。
いや、違う。
今の音は、明らかに質量のある物体が、木の扉にぶつかった音だ。
こんな吹雪の日に、野生動物だろうか。
それとも、雪の塊が屋根から落ちたのか。
私はショールを肩に羽織り、恐る恐る玄関へと向かった。
ドアノブに手をかける。
真鍮の冷たさが、指先から伝わってくる。
もしも熊だったらどうしよう。
そんな不安がよぎったが、確認しないわけにはいかない。
意を決して、私は重い扉を少しだけ開けた。
ゴオオオオオッ!!
途端に、暴力的な冷気が室内に雪崩れ込んでくる。
視界が真っ白に染まり、肌が切れそうなほどの痛みが走る。
「うっ……!」
私は目を細め、足元を見た。
そこには、雪に埋もれるようにして倒れている、黒い塊があった。
「……人!?」
驚愕の声が漏れる。
それは、黒いマントを纏った男性だった。
顔は見えないが、体格からして成人男性だろう。
ピクリとも動かない。
雪が容赦なく彼の上に降り積もり、今にもその姿を消し去ろうとしている。
「ちょっと! 大丈夫ですか!?」
私は慌てて彼の肩を揺すった。
反応はない。
手袋越しに触れたその体は、まるで石のように硬く、そして冷たかった。
死んでる?
いや、まだ微かに息をしているかもしれない。
ここで見捨てれば、彼は確実に数分以内に凍死するだろう。
「……くっ!」
私は彼に積もった雪を払い除け、その脇の下に腕を差し込んだ。
重い。
濡れたマントと、その下に着込んでいるらしい鎧の重みが、私の細腕にずしりとのしかかる。
火事場の馬鹿力というやつだろうか。
私は歯を食いしばり、必死の思いで彼を室内へと引きずり込んだ。
◇◆◇
なんとか扉を閉め、鍵をかける。
吹き荒れる風の音が遠ざかり、再び暖炉の音が戻ってくる。
私は床に倒れ込んだままの男性を見下ろし、荒い息を吐いた。
「はぁ、はぁ……と、とりあえず、温めないと」
彼のマントは雪と氷で凍りついていた。
顔色は土気色を通り越して、青白く透き通っている。
唇には全く血の気がなく、紫色の死相を浮かべていた。
私は急いで暖炉の前に彼を引きずっていき、敷いてあったラグの上に寝かせた。
そして、凍りついたマントの留め具を外そうと手を伸ばす。
「ひっ……!」
思わず指を引っ込めた。
冷たい。
ただ寒い空気に晒されていたというレベルではない。
まるでドライアイスに触れたかのような、焼き付くような冷たさが、彼全身から放射されていたのだ。
「な、何これ……」
彼の周囲の空気が、白い靄のように揺らいでいる。
室内の温かい空気が、彼に触れた瞬間に急速に冷却されているのだ。
これは、ただの遭難じゃない。
私の中にあるファンタジー小説やゲームの知識が、警鐘を鳴らす。
これは『呪い』だ。
それも、かなり強力な。
けれど、今は躊躇っている場合じゃない。
私はキッチンからナイフを持ってくると、凍りついて外れないマントの紐を切断した。
バリバリと音を立ててマントを剥がすと、その下には豪奢な騎士の鎧が現れた。
銀色の胸当てには、王家の紋章が刻まれている。
「騎士様……?」
こんな辺境の森に、王国の騎士が何の用だろうか。
疑問は尽きないけど、まずはこの冷え切った金属の塊を外さないと。
鎧のベルトを外し、籠手を外し、ブーツを脱がせる。
慣れない作業に手間取って、ヘロヘロになりながらもなんとか彼をシャツとズボンだけの姿にすることができた。
「……寒い……」
彼がうわ言のように呟いた。
その声は、震えて擦れていた。
「寒、い……助け……て……」
彼の身体が、小刻みに痙攣を始める。
ガチガチガチガチと、歯の根が合わない音が響く。
私は暖炉に新しい薪を放り込み、火の勢いを強めた。
さらに、鍋で温めていたお湯を湯たんぽに入れ、毛布を数枚重ねて彼の上に掛けた。
「大丈夫ですか? 今、温かいスープを作りますからね」
私は彼に声をかけながら、キッチンへと走った。
生姜とハチミツを入れたホットミルクを作ろう。
内側から温めれば、少しはマシになるはずだ。
小鍋にミルクを入れ、火にかける。
ふと、背中に冷気を感じて振り返った。
「……え?」
暖炉の火が、小さくなっていた。
さっき薪を足したばかりなのに。
まるで、見えない何かに熱を奪われているかのように、炎が弱々しく揺らいでいる。
そして、部屋の温度が下がっていた。
吐く息が白い。
断熱魔法を施したこの家で、暖炉がついているのに、息が白くなるなんてありえない。
視線を床に向けると、彼が寝ているラグの周りに、霜が降り始めていた。
白い結晶が、じわじわと床板を侵食していく。
「嘘でしょ……」
私はミルクを放置して、彼の元へ駆け寄った。
毛布の上からでも分かるほど、彼は激しく震えていた。
湯たんぽは、既に冷たくなっていた。
いや、凍りついていた。
「寒い……寒い……!!」
彼は苦しげに胸をかきむしり、体を丸めている。
「しっかりしてください! 騎士様!」
私は彼の手を握った。
氷柱のように冷たい。
私の体温が、触れた端から吸い取られていくような感覚。
これは、異常だ。
彼の体そのものが、底なしのブラックホールのように熱を貪っている。
『永久凍土の呪い』。
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。
この世界の本で読んだことがある。
氷の魔物を討伐した者が受ける、死の呪い。
体内の熱を永遠に奪われ続け、外部から熱を与え続けなければ、心臓ごと凍りついて死に至るという、恐ろしい呪い。
もしそうだとしたら、暖炉の火や湯たんぽ程度では追いつかない。
もっと直接的で、もっと強力な熱源が必要。
「……どうすれば」
彼の顔色は、さらに悪くなっていた。
まつ毛や髪の毛に、うっすらと霜が降りている。
このままでは、彼は死ぬ。
私の目の前で、凍りついて砕け散ってしまう。
そんなの、嫌だ。
せっかく助けた命なのに。
私の平穏な生活を守るためにも、こんな場所で行き倒れになられては困る。
「……仕方ない」
私は覚悟を決めた。
生存本能が、倫理観を上回る。
前世の記憶にある、極限状態での救命方法。
低体温症の人間を救う、最も効率的な手段。
それは、人肌による直接的な加温。
私は立ち上がり、自分の服に手をかけた。
厚手のセーターを脱ぎ、その下のシャツのボタンを外す。
肌寒い空気が肌を刺すけど、構っていられない。
私はキャミソール一枚になると、彼の上に掛けた毛布の中に潜り込んだ。
「ひっ……!」
冷たい。寒い。
彼の体は、氷の彫像のようだった。
触れたお腹や太ももから、私の熱が一気に奪われていく。
けれど、逃げるわけにはいかない。
「お願い、生きて……!」
私は彼の凍えた体を、両腕でしっかりと抱きしめた。
彼のシャツ越しに伝わる、弱々しい心音。
それを守るように、私は自分の胸を彼の胸に押し当てた。
私の心臓の鼓動が、熱となって彼に伝わるように。
「……っ……」
彼が微かに呻き、無意識に私の背中に腕を回してきた。
強い力だった。
溺れる者が藁をも掴むような、何かにすがろうとする、必死の力。
彼の冷たい手が、私の素肌に触れる。
ゾクリと背筋が震えたが、私は彼を拒絶しなかった。
むしろ、もっと密着できるように、足を彼の足に絡ませた。
「寒くないですよ……ここに、熱がありますよ……」
私は彼の耳元で囁きながら、背中をさすり続けた。
外では、吹雪が轟々と吹き荒れている。
窓ガラスがガタガタと震え、世界が凍りついていく音がする。
けれど、この毛布の中だけは、二人の体温が混じり合い、小さな熱の聖域を作っていた。
彼の震えが、少しずつ収まっていく。
私の体温が彼に流れ込み、彼の冷気が私を冷やす。
その循環の中で、私たちは一つの生命体のように溶け合っていく。
どくん、どくん。
二つの心音が、リズムを合わせて響いている。
私は彼の冷たい頬に自分の頬を寄せ、祈るように目を閉じた。
どうか、朝まで持ちこたえて。
この長い冬の夜を、二人で越えられますように。
◇◆◇
どれくらいの時間が経ったんだろう。
暖炉の薪が崩れる音で、私はふと意識を取り戻した。
いつの間にか、まどろんでいた。
腕の中の感覚が変わっていることに気づく。
あの刺すような冷たさが消え、じんわりとした温もりが戻ってきていた。
恐る恐る顔を上げると、目の前に彼の顔があった。
すぐ鼻先が触れそうな距離。
濡羽色の黒髪が、汗で額に張り付いている。
閉じた瞼の下には、長いまつ毛が影を落としていた。
顔色はまだ青白いものの、唇には薄く赤みが差している。
そして何より、彼の口から漏れる寝息が、温かかった。
「……よかった」
安堵のため息が漏れる。
どうやら、最悪の事態は脱したみたい。
私は彼の胸に耳を当て、力強さを取り戻した心音を確認した。
トクトクと、規則正しいリズム。
それが嬉しくて、愛おしくて、私は思わず彼の胸に顔を埋めた。
その時だった。
「……ん……」
彼が低く唸り、ゆっくりと目を開けた。
燃えるような、金色の瞳。
その瞳が、ぼんやりと私を捉える。
「……ここは……?」
掠れた声。
まだ状況が理解できていないんだ。
私は慌てて体を離そうとしたが、彼の腕が私の腰をがっちりと抱え込んでいて、動けなかった。
「あ、あの……目が覚めましたか?」
私の声に、彼の瞳が大きく見開かれた。
彼は自分の状況、見知らぬ場所で、毛布にくるまり、薄着の若い女性を抱きしめているという状況を認識し、顔を一気に真っ赤に染めた。
「き、君は……!? 俺は、一体……何を……!?」
「動かないでください! まだ体が冷え切っています!」
私が制止すると、彼はビクリと体を強張らせた。
「す、すまない……! だが、これは……」
彼は狼狽し、視線を泳がせる。
その反応が、なんだか可愛らしくて、私は少しだけ笑ってしまった。
「私はノエル。このアトリエの主です。貴方が雪の中で倒れていたのを、助けたんです」
「……助けた?」
彼は記憶を辿るように眉を寄せ、やがてハッとした表情になった。
「そうか……俺は、森で……」
彼は私を見つめ直し、その金色の瞳に深い感謝の色を浮かべた。
「ありがとう、ノエル殿。君が温めてくれたのか……この、俺を」
「……はい。そうしないと、貴方が死んでしまいそうだったので」
私は照れ隠しのように視線を逸らした。
密着した体から、彼の体温が伝わってくる。
それはもう、呪いの冷たさではなく、生きている人間の、頼もしい熱さだった。
「俺の名は、レオン。……レオン・ハルト・ヴォルフレイだ」
「レオン様、ですね」
「様はいらない。……命の恩人に、敬称など不要だ」
レオンは不器用に微笑むと、私の背中に回していた腕に、ぎゅっと力を込めた。
「もう少しだけ……このままでいさせてくれないか。君から離れると、また凍えてしまいそうだ」
その言葉には、切実な響きがあった。
呪いの恐怖と、孤独への恐れ。
私は無言で頷き、彼を抱きしめ返した。
◇◆◇
暖炉の薪がパチリと爆ぜる音だけが、静寂の中に響いている。
お互いの心音と体温を確かめ合うような長い沈黙の後、レオンがぽつりと口を開いた。
「……すまない」
私の背中に回した腕に、微かに力がこもる。
「こんな……見ず知らずの男に、ここまでさせてしまって」
「気にしないでください。貴方が死んでしまうよりマシですから」
私は彼の胸元に顔を埋めたまま答えた。
顔を上げたら、あまりの近さに心臓が止まってしまいそうだったから。
どうしていいか分からなくてそうしてた。
「それに、暖炉の火も湯たんぽも効かないなんて……ただ事じゃありません。一体、どうしてあんな状態で森に?」
私の問いかけに、レオンの体が僅かに強張った。
彼は迷うように息を吐き出し、そして、観念したように語り始めた。
「……呪いだ」
「呪い?」
「ああ。『永久凍土の呪い』。かつて北方に出現した『氷の魔竜』を討伐した際、その最期の吐息を浴びてしまった」
やっぱり、そうだったんだ。
私の推測は当たってた。
「この呪いは、俺の体温を奪い続ける。普通の炎や厚着程度では防げない。常に外部から強力な熱を与え続けなければ、心臓ごと凍りついて死に至る」
彼の声は淡々としていたけれど、そこには深い絶望が滲んでいた。
「王都の魔術師たちにも解呪は不可能だった。……俺は騎士団を辞し、誰にも迷惑をかけずに果てるつもりで、この北の森へ入ったんだ」
「……死に場所を探していた、ということですか?」
「そうだ。街にいれば、周囲の熱まで奪ってしまう。誰かを傷つける前に、誰もいない極寒の地で眠りにつこうと」
自嘲気味に笑う彼の振動が、私の頬に伝わってくる。
英雄と呼ばれた騎士が、誰にも看取られずに孤独死を選ぶ。
そんな悲しい結末を、彼は受け入れていたんだ。
「馬鹿ですね」
私がきっぱりと言うと、彼は驚いたように体を引こうとした。
でも、私がしがみついているから動けない。
「せっかく魔竜を倒して生き残ったのに、自分から死のうとするなんて。命がもったいないです」
前世で過労死した私からすれば、生きているだけで儲けものだから。
どんなに辛くても、美味しいご飯が食べられて、暖かい布団で眠れるなら、生きていた方がいいに決まってる。私は単純なバカだから、そう思う。
「でも、俺は……」
「迷惑だとか、生き恥だとか、そんなことを考えていたんでしょう? そんなの、生きていればどうとでもなります」
私は顔を上げ、彼の金色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「貴方は今、生きています。私の体温で、温かいと感じています。それが全てじゃないですか」
レオンは目を見開き、言葉を失っていた。
その瞳に、暖炉の炎が揺らめいている。
「……君は、強いな」
彼は眩しそうに私を見たあと、ふっと表情を緩めた。
それは、初めて見せる穏やかな笑みだった。
「ありがとう、ノエル。……君の言う通りかもしれない」
彼は私の頭に、そっと顎を乗せた。
「君の熱が、凍りついていた俺の思考まで溶かしてくれたようだ。……生きたいと、今は思う」
その言葉を聞いて、私は心の底からホッとした。
よかった。彼が生きる気力を取り戻してくれて。
「でも、どうするつもりですか? この森は一度雪に閉ざされたら、春まで出ることはできませんよ」
私は、彼の背中越しに見える窓を指差した。
外はまだ猛吹雪。
この積雪量では、馬はおろか、呪いで弱った彼が徒歩で移動するのは不可能だ。
「それに、貴方のその呪い……私から離れたら、またすぐに発作が起きるでしょう?」
「……そうだな」
彼は自分の手を見つめた。
私と密着している今は温かいけれど、離れればすぐに氷のように冷たくなるんだろう。
「俺は、君に負担をかけるだけの存在だ。ここを出ていくべきなのは分かっている。だが……」
彼の腕が震えた。
死ぬ覚悟を決めていたはずの彼が、今は離れることを恐れている。
その人間臭さが、私には愛おしく思えた。
「死にたいなら止めませんけど、うちの玄関先で死なれるのは困ります」
私はわざとぶっきらぼうに言った。
「春まで、ここにいてください。労働力として働いてもらいますから」
「……いいのか?」
「一人暮らしだと、雪かきとか薪割りとか、結構大変なんです。男手があるなら助かります。食料の蓄えはひと冬を越えられる程度にはありますから」
建前半分、本音半分。
本当は、この寂しげな金色の瞳を、もう少し見ていたいと思ってしまっただけ。
レオンは一瞬驚いた顔をして、それから深く、深く頷いた。
「……感謝する。この命、春まで君に預ける」
その誓いと共に、彼は私を抱きしめる腕に力を込めた。
今度は生存本能だけじゃない。
私の体温を、私の存在そのものを慈しむような、優しい抱擁だった。
私はその腕の中で、静かに目を閉じた。
外の風音はまだ止まない。
けれど、この腕の中だけは、世界で一番安全で、温かい場所に感じられた。
そのまま私たちは、自然と眠りに落ちていった。
◇◆◇
翌朝、私は小鳥のさえずりと、薪が弾ける音で目を覚ました。
目を開けると、いつもの見慣れた天井があった。
けれど、体の感覚はいつもと違った。
背中には暖かい毛布の感触。
そしてお腹側には、硬くて温かい、大きな抱き枕のような感触がある。
(……あ)
そうだ。そのまま寝てしまったんだ。
恐る恐る顔を上げると、すぐ目の前にレオンの寝顔があった。
昨夜の苦悶の表情は消え、今は穏やかに寝息を立てている。
長い睫毛、高い鼻梁。
悔しいけど、すごく綺麗な顔だ。
そっと体を離そうと動いた瞬間、彼の金色の瞳がぱちりと開いた。
「……!」
目が合ってしまった。
数秒の沈黙。
そして、彼の顔が一気に赤く染まっていく。
「お、おはよう……ございます……」
「お、おはよう……」
私たちは弾かれたように飛び起きた。
私は毛布を被って丸まり、彼は勢いよく立ち上がって頭を梁にぶつけそうになっていた。
「す、すまない! 俺は、なんてことを……! 未婚の女性と同じ寝具で……!」
レオンは顔を覆ってうずくまった。
その耳まで真っ赤になっている。
昨夜はあんなに切実だったのに、朝になると急に初心な反応をするなんて、反則だ。
「……い、いいんです。い、医療行為、ですから」
私は努めて冷静に声をかけ、逃げるようにキッチンへ向かった。
◇◆◇
それからの生活は、驚くほど穏やかだった。
レオンは元騎士団長というだけあって、真面目で働き者だった。
朝起きると、暖炉の掃除と火起こしは終わっている。
外に出て、私の背丈ほどもある雪を軽々とどけて、道を作ってくれる。
不器用なりに料理も手伝ってくれた。
私は刺繍の仕事を進めながら、そんな彼の様子を眺めるのが日課になっていた。
パチパチという暖炉の音。
彼が薪を割る、カーン、という小気味よい音。
静かだった私のアトリエに、新しい音が加わった。
ただ、一つだけ問題があった。
それは、夜だ。
昼間は暖炉の近くにいれば平気なレオンも、夜になり気温が下がると、呪いの力が強まるのか、急激に体調を崩す。
ガタガタと震え出し、唇が紫色になる。
最初の数日は、彼も遠慮してソファで寝ようとしていた。
けれど、夜中にうなされる声を聞いてしまっては、放っておけるはずがない。
「……レオン、こっちに来てください」
私はベッドの端を空けて、彼を呼んだ。
「い、いや、しかし……!」
「死んでしまいますよ? いいから早く……」
結局、毎晩のように私たちは同じベッドで眠ることになった。
これは医療行為。
そう自分に言い聞かせて、私は彼を抱きしめる。
彼の冷たい体が、私の体温で少しずつ温まっていく。
その感覚に安堵すると同時に、どうしても意識してしまう。
男性の、逞しい腕。広い背中。規則正しい寝息。
暗闇の中で密着していると、彼がただの「患者」ではなく、「異性」として輪郭を帯びてくる。
レオンの方も、最初は硬直していたけれど、日が経つにつれて、無意識に私を求めるようになってきた。
眠りにつくと、彼は子供のように私にすり寄ってくる。
私の首筋に顔を埋めたり、足を絡ませてきたり。
その度に私はドキリとして、眠れぬ夜を過ごすことになる。
これ、ものすごく心臓に悪い……。
◇◆◇
ある吹雪の夜のこと。
その日は特に冷え込みが厳しく、暖炉の火を最大にしても、窓ガラスに氷の華が咲くほどだった。
断熱はかなりのものなのに、ここまで冷え切るのは珍しい。
私は刺繍の手を休め、ホットワインを作った。
「どうぞ。温まりますよ」
暖炉の前で本を読んでいたレオンにカップを渡す。
「ありがとう。……いい香りだ」
彼は一口飲み、ふうっと息を吐いた。
炎に照らされた横顔は、出会った頃の青白さが消え、少し血色が良くなった気がする。
「ノエルの刺繍は、すごいな」
彼が不意に、私の作りかけのタペストリーを見つめて言った。
「俺は武骨者だから、芸術のことはよく分からないが……君が針を刺している姿を見ていると、なんだか落ち着くんだ。魔法を見ているみたいだ」
「……ありがとうございます。ただの、生活の糧ですよ」
「いや、それだけじゃない。君の指先から、温かいものが紡ぎ出されている気がする」
彼は真剣な顔で私を見た。
「俺は、君のその温かさに……救われている」
その言葉の響きが、妙に熱っぽくて。
私はなんと答えていいか分からず、カップの縁を指でなぞった。
「……私は、貴方の役に立っているでしょうか」
「立っているなんてもんじゃない。君がいなければ、俺はとっくに氷の塊になっていた」
彼はカップを置き、私の手を取った。
彼の手は、以前よりずっと温かかった。
私の体温が、彼の中に根付いている証拠だ。
「ノエル。……春が来たら、俺はここを出て行く」
「……はい」
分かってる。
雪が解ければ、彼は王都へ戻るなり、別の旅に出るなりするだろう。
ここはあくまで、冬の間の……今だけの避難所だから。
「でも、それまでは……甘えさせてほしい。君の温もりに」
彼は私の手を引き寄せ、その甲に額を押し付けた。
まるで、祈るように。
あるいは、忠誠を誓う騎士のように。
その仕草が切なくて、胸がぎゅっと締め付けられた。
まだ春は、来ないでほしい。
この雪が、ずっと私たちを閉じ込めていてくれればいいのに。
そんな我儘な願いが、心の中に芽生え始めていた。
◇◆◇
けれど、平穏な日々は長くは続かない。
冬の終わりが近づくにつれて、レオンの呪いは、最後のあがきを見せるかのように、凶暴さを増していった。
その予兆は、ある朝、突然訪れた。
私が目覚めると、隣にいるはずのレオンがいなかった。
キッチンにも、リビングにもいない。
まさか。
私は慌てて玄関へ走った。
ドアを開けると、そこには雪かき用のスコップを持ったまま、雪の中に膝をついているレオンの姿があった。
「レオン!!」
駆け寄って彼の肩を掴む。
彼はガタガタと震えながら、真っ青な顔で私を見上げた。
「く、くるな……ノエル……」
彼の体から、凄まじい冷気が吹き出していた。
触れた私の手袋が、一瞬で凍りついて白くなるほどに。
「離れろ……! 俺に触ると……君まで……凍る……!」
彼は私を突き放そうとした。
けれど、その力は弱々しく、逆に私の袖を掴んで離さない。
拒絶と、渇望。
相反する二つの感情が、彼の中でせめぎ合っている。
「馬鹿なこと言わないで!」
私は彼を無理やり立たせ、家の中へと押し込んだ。
これは、ただの発作じゃない。
呪いが、彼の命を刈り取ろうとしている。
扉を閉め、鍵をかける。
それでも、彼の体から吹き出す冷気は止まらない。
部屋の温度が急激に下がっていく。
窓ガラスがピキピキと音を立てて凍りつき、暖炉の炎が一気に小さくなった。
「……ぐっ……ぁぁ……!!」
レオンが床に膝をつき、胸を掻きむしる。
心臓が、凍りつこうとしているのだ。
私は迷わず、彼に駆け寄った。
「来るなっ!!」
彼が叫ぶ。
けれど、私は止まらなかった。
彼を抱きしめる。
分厚い氷の壁にぶつかったような衝撃と激痛が走った。
私の体温が一瞬で奪われ、意識が飛びそうになる。
「……離れろ……ノエル……死んでしまう……!」
「離しません!」
私は歯を食いしばり、さらに強く彼を抱きしめた。
私には、特別な聖女の力なんて、きっとない。
癒やしの魔力も、奇跡を起こす血筋もない。
ただの、人見知りの刺繍作家だ。
けれど。
「死なせない……絶対に、死なせない……!」
ただ、彼を救いたい。
その一心だけが、私の中で燃え上がっていた。
私の熱が、彼に流れ込む。
彼の冷気が、私を侵食する。
そのせめぎ合いの中で、不思議なことが起きた。
私の「助けたい」という純粋な願いと、彼の奥底にある「生きたい」「彼女と共にありたい」という渇望。
二つの想いが、深いところで混じり合った、その時だった。
(……あ、そっか)
触れ合った肌を通して、流れ込んでくる冷気。
その正体に、私は唐突に気づいた。
何故、気づいたのかは分からない。けど、分かった。
これは、ただの冷たさじゃない。
死にゆく竜が最後に抱いた、絶対零度の『孤独』だ。
誰にも触れられず、誰のぬくもりも知らずに死んだ、哀しい竜の嘆き。
それが熱を求めて、レオンの体を蝕んでいたんだ。
「……もう、寂しくないよ」
私は、駄々をこねる子供をあやすように、さらに強く彼を抱きしめた。
奪おうとするなら、奪えるだけの熱を全部あげる。
私の熱が彼に流れ込み、彼の鼓動が私を温める。
ドクン、ドクン。
二人の心臓がポンプのように、お互いの熱を循環させ、増幅させていく。
それはまるで、二つの魂が一つの魂になったような感覚だった。
無限に循環する愛の熱量が、底なしだったはずの『孤独』を満たしていく。
どんな高位の魔法でも解けなかった呪いが、満ち足りた吐息のように静まっていく。
それは、きっと、誰にも説明できないけれど、必然の奇跡だった。
「……あ……」
レオンの体から力が抜け、私の腕の中に倒れ込んだ。
刺すような冷気は消えていた。
代わりに、じんわりとした汗ばむような熱気が、彼から伝わってくる。
「……温かい……」
彼がうわ言のように呟き、私の背中に腕を回した。
私たちは暖炉の前で、泥のように眠りに落ちた。
外の吹雪が、いつの間にか止んでいることにも気づかずに。
◇◆◇
チチチ、と小鳥の声が響く。
まぶたの裏が明るい。
私はゆっくりと目を開けた。
窓から差し込んでいたのは、目が眩むほど鮮やかな陽光だった。
窓ガラスに張り付いていた氷の華は消え、雫となってキラキラと輝いている。
ポチャン、ポチャンと、屋根の雪が溶けて落ちる音が聞こえる。
「……朝……?」
体を起こすと、隣でレオンも目を覚ましたところだった。
彼の顔を見て、私は息を呑んだ。
顔色が、いい。
今まで見たことがないほど、健康的な血色が戻っている。
あの青白さは微塵もなく、生命力に溢れていた。
「……呪いが、静まっている」
彼は自分の胸に手を当て、驚愕していた。
「あんなに暴れていたのに……今は、嘘のように静かだ」
完全に消えたわけではないかもしれない。
けれど、命を脅かすほどの冷気は感じられない。
私たちは顔を見合わせ、そして、窓の外を見た。
そこには、眩しいほどの青空が広がっていた。
分厚い雪雲は去り、雪解け水が小川のように流れている。
冬が、終わった報せだった。
◇◆◇
レオンの旅支度は、すぐに終わった。
もともと、剣と身一つで倒れていたのだから、荷物なんてほとんどない。
私が繕ったマントを羽織り、剣を腰に差す。
その姿は、私が出会った時の「死に場所を探す男」ではなく、威風堂々とした「騎士」そのものだった。
アトリエの扉が開く。
春の匂いを含んだ風が、ふわりと吹き込んできた。
レオンは扉の前で立ち止まり、私に向き直った。
「……ありがとう。世話になった」
彼は短く言った。
「君のおかげで、俺は命を拾った。この恩は、一生忘れない」
「……はい」
私は手を組んで、精一杯の笑顔を作った。
「お気をつけて。王都までの道は、もう雪も溶けて歩きやすいはずです」
「ああ。……ノエルも、元気で」
彼は何かを言いかけて、けれど口をつぐんだ。
そして、踵を返した。
ザッ、ザッ、と雪解けの大地を踏みしめる音が響く。
彼の背中が、遠ざかっていく。
(行かないで)
その言葉が、喉元まで出かかっていた。
でも、言えなかった。
彼は英雄で、私はただの森の住人。
呪いが落ち着いた今、彼をここに引き留める理由なんて、何もない。
冬が終われば、雪が溶けるように、私たちの関係も終わる。
分かっていたはずなのに。
冬は過ぎたはずなのに、私の体は凍えるように震えている。
一歩、また一歩と彼の背中が遠ざかる。
ふたりで過ごした思い出が。
暖炉の前で語り合った夜が。
抱きしめあって、お互いの鼓動を聞きながら温めあった日々が。
記憶の彼方へと消えていってしまう。
嫌だ。
そんなの、嫌だ。
こんなの……嫌だ
「レオ……ッ」
声にならない叫びが、思わず漏れた。
掠れた、小さな音。
彼に聞こえるような声量でもないし、もう距離も離れている。
届くはずがない。
けれど。
彼は、ピタリと足を止めた。
そして、振り返った。
遠くにいて、彼の表情までは見えない。
けれど、心で理解した。
心が、理解した。
彼は、私を求めている。
私も、彼を求めている。
私は、思わず駆け出した。
私が駆け出すよりも先に、彼の方も駆け出していた。
泥が跳ねるのも構わずに。
彼が全力で、私のもとへ走ってくる。
二人の距離が、みるみる縮まっていく。
やがて、彼の表情が見える。
その彼の顔は……――。
「ノエルッ!!」
「レオンッ!!」
ふたつの声が重なる。
まるでハーモニーのように、春の空に響き渡った。
ドサッ!
彼と私の身体がぶつかる。
勢いのまま、彼は私を強く抱きしめ、私も彼の背中に腕を回してしがみついた。
彼の体温。
彼の匂い。
彼の心臓の音。
彼が私の肩に顔を埋め、震える声で言った。
「やっぱり、駄目だ。君がいないと……俺は、生きていけない」
「……私もです。貴方がいないと、寒くて凍えてしまいそうなんです」
私たちは、泥だらけの道の上で、子供のように抱き合った。
彼の呪いは解けて、今度は……私が呪いにかかってしまった。
彼の近くにいないと……凍えてしまう呪い。
私たちは、もうお互いの熱なしでは生きられない。
彼が、私を見つめる。
その金色の瞳に、私が映っている。
彼はゆっくりと顔を近づけ、私たちは初めて、愛のためのキスをした。
雪解け水が光り、足元には小さな緑の芽が顔を出している。
長く、厳しい冬は終わった。
私たちの元に、春が来た。
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