53.覚えていないが、誰だ?
「あら、そちらのご令嬢……もしかして街で見た子かしら?」
予想外の令嬢が引っ掛かった。以前にサンバドルの王都で、ピンクのガラスペンを横取りした子だ。可愛いベスの恩情で「ガラスペンを施して」やったのを思い出す。あの時の毅然としたベスの対応は、とても素晴らしかった。
他人の物を奪おうとする失礼な輩は、無礼な侍女を連れていた。あの日も今日も、同じ侍女がいる。何らかの武術の心得があるようだが、正直、私にとって脅威でも何でもない。ベスに危害を加えるようなら、捻るだけの話だった。
「お兄様、ご存じ?」
振り返って「街で同行した兄」へ話を振る。柔らかなピンクに染めた唇が、意味ありげに弧を描いた。これも獲物の一つ、そう認識したのだろう。セシリオは苦虫を嚙み潰したような顔になるが、深呼吸して立て直した。
どうやら言い寄る令嬢の一部らしい。顔に出すなど、未熟だな……セシリオ。
上から下までじろじろと不躾な視線で令嬢を見た後、私はゆっくりと首を横に振った。
「いや、覚えていないな。重要人物ではないようだ」
私達にとって意味ある、重要な存在ではない。そう言い切って、ベスに微笑んだ。セシリオと腕を組むでもない、淑女の距離で指先を預けるだけ。ベスの作法は文句のつけようがなかった。
「っ、何ですって! あの無礼を忘れたの?!」
「おや、アッヘンバッハ侯爵令嬢に無礼を働いたのですかな?」
にやにやしながら男が一人加わった。太鼓でも隠し持っているのかと疑うほど大きな腹を揺らしながら、近づいて来る。一瞬嫌そうな顔をしたものの、アッヘンバッハ侯爵令嬢と呼ばれた彼女は味方を得たと思ったようだ。
「そうよ、私を乞食呼ばわりしたの」
「なんということか」
大袈裟に嘆くフリをする男の声は、朗々と響いた。まるで歌劇の主役歌手のようだ。あの豊満すぎてはちきれそうな腹は、音を増幅するらしい。中身は太鼓に決まりだな。真面目腐った顔の裏で、そんな考えを巡らせた。
叩きのめしておしまい! そんなカランデリア様の声が聞こえた気がする。後ろで母上が、わかっていますね? と書いた顔で見守っていた。想像だけで恐ろしいが、この場にいたら現実になっただろう。
フリアンが気づかわし気な視線を向けるも、対応は決まっている。今日は何も恐れない無礼な平民兄妹を装うのだから。
「……思い出したぞ。最愛のベスへ購入したピンクのガラスペンをお強請りし、強奪した……あの女か」
何も間違っていない。事実を端的に告げただけだ。当時の現場を知るセシリオが我慢できずに噴き出した。慌てて真顔を取り繕うが、遅い。
「ガラスペンをお強請り?」
「強奪?」
聞いた周囲の貴族がざわつく。貴族にとって、何かを購入することは家の力を示す行為だ。高額な品を平然と、はたまた安い品であっても気に入ったら褒めて格上げする。産業を作るも潰すも、貴族の一声だった。そんな階級において、金を払った人物から取り上げた行為は醜聞でしかない。
慌てる侯爵令嬢をよそに、セシリオを見に来た観客貴族は新しい噂のネタに飛びついた。




