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第一章:吹雪の閉ざす路



No.1. 峠路の孤立


 信濃路しなのじ

 草木も凍てつく深山に、容赦のない白い悪魔が吹き荒れていた。


 視界はわずか数尺。


 風が唸りを上げ、雪は肌を刺す砂のように叩きつける。

 ここは「馬頭ばとう峠」。


 江戸と京を結ぶ主要街道の一つでありながら、ひとたび天候が崩れれば、旅人を永遠に飲み込む魔の山へと変貌する。

 その猛吹雪の中を、四人の男が懸命に進んでいた。


 一人は重い人力車を引き、その脇を首吊り 丈之助と名乗る男が警戒心に満ちた眼差しで進む。 

 丈之助は身の丈六尺を超す偉丈夫だが、吹雪に晒された彼の着流しはすでにびしょ濡れで、寒さに震えている。


 「くそっ、この雪は一体いつ止むんだ!」


 人力車の車夫、五郎が悲鳴のような声を上げた。

 雪は彼の顔面に張り付き、目も開けられないほどだ。


 丈之助の視線は、駕籠の中に繋がれた女――お咲――に釘付けになっていた。

 

 彼の左手には、錆びた鉄の鎖が厳重に巻き付いている。

 その鎖の先は、人力車の中で膝を抱えるお咲の首と両手首に繋がれていた。


 丈之助が唯一、捕らえた罪人を必ず生きたまま引き渡すという、彼の信念を体現する鎖だ。

 お咲は悪名高い盗賊団の頭領の女。


 その身代は千両とも噂されている。


 彼女は駕籠の中で冷たい笑みを浮かべ、時折、丈之助の顔に挑発的な視線を投げかける。


 「ご苦労なこったね、首吊りさんよ。あんたのその立派な正義も、この雪の前じゃ凍り付いちまうよ」


 「黙れ、悪女め」


 丈之助は低い声で一喝した。


 「お前を縄の手に渡すまでは、この鎖は絶対に放さん」


 彼の正義感は、狂信的と言えるほどに強固だった。


 しかし、その強固さの裏側には、罪人を一歩でも逃がせば、彼自身の評判と生活が崩壊するという、ある種の独善が潜んでいた。

 そして今、この吹雪は、その鋼の信念すらへし折らんばかりに牙を剥いていた。


 「助けが来るさ。あたしの仲間がね。あんたの、その鎖ごと、首をへし折ってくれるよ」


 お咲の言葉は、丈之助の最も深い不安をえぐった。

 彼女の仲間、盗賊団は、この峠を越えた引き渡し地で頭領を救出すべく、必ず動いているはずだ。


 この猛吹雪は、彼らにとっては絶好の奇襲の舞台となる。




No.2. 三つの首級


 まさにその時、風の唸りとは違う、低く鈍い足音が、雪の壁の向こうから近づいてくるのを丈之助は感じた。

 彼は反射的に右手で腰の十手を握りしめ、駕籠かきに命じた。


 「止まれ! 何奴だ!」


 雪煙が渦巻く中、巨大な人影が浮かび上がった。

 その男は、丈之助と同じく長身だが、纏っているのは濃い色の南蛮風の外套。


 顔は雪に濡れそぼっているが、その肌の色は、周囲の日本人とは異なる、日に焼けたような深い褐色をしていた。


 そして何よりも異様なのは、男が左肩に担いでいる物だ。

 藁で編んだ粗末な筵に包まれ、紐でくくられた、三つの重い塊。


 それらは明らかに、人間の首級であった。


 その男――黒岩 鉄馬は、風を避けるように目を細め、低い声で尋ねた。


 「旅人か。この雪だ、峠路はもう閉ざされている。どちらへ急がれる?」


 丈之助は警戒を緩めない。


 賞金稼ぎの間では、彼と同じく幕府のお尋ね者を追う脱藩浪人がいると噂になっていた。

 名を鉄馬。元新選組の隊士だったともいう。その異国の血を引くような肌の色は、彼の南国育ちを示唆していた。


 「罪人を運んでいる。貴様は?」


 丈之助が問うと、鉄馬は無造作に肩の重荷を指差した。


 「俺も同じ、賞金稼ぎだ。こちらは首級。江戸に届けて金に換える」


 鉄馬の眼差しは冷酷で、底知れぬ復讐の炎を宿しているように見えた。

 彼の顔には、新選組の残党狩りから逃れてきた者が持つ、張り詰めた緊張感が漂っていた。


 「貴様……黒岩鉄馬か」


 丈之助は、この男が自分と並ぶ裏社会の住人であり、同時に自分の正義の対象外にある存在だと感じた。


 「峠の関所、『茶屋』まではまだ遠いか?」


 「いや、この先、あと半里はんりほど。だが、この吹雪では夜までに着くかどうか」


 五郎が震えながら答えた。


 鉄馬はしばらく空を見上げ、雪の勢いを測ると、ため息をついた。


 「このまま進めば、凍死する。引き返すには遅すぎる。…全員、峠の茶屋へ避難するしかない」




No.3. 同行の承諾


 丈之助は舌打ちをした。


 「断る。貴様のような正体不明の浪人と、一晩を共にするわけにはいかん」


 丈之助がお咲の仲間の襲撃を極度に恐れていることは、彼自身が誰よりも理解していた。

 鉄馬という異質な存在の同乗は、彼の計画に不確定要素を持ち込む。


 だが、鉄馬は丈之助の拒否を意に介さず、駕籠の脇に一歩踏み出した。


 「お前は、この女を生きながら引き渡したいのだろう? なら、この吹雪で凍え死なせるわけにはいかない。そして、お前の連れだけが凍死を免れ、俺とこの首級が生き残ったら、どうなる?」


 鉄馬は、丈之助の信念と利己心の境界線を正確に突きつけた。


 「俺が居れば、万が一、山賊の類が出たとしても、お前一人の時よりは心強い。俺の獲物はこの三つの首級。お前の女には興味がない。だが、もしお前の獲物が逃げたら……その時は、俺が首を獲るまでだ」


 その冷徹な言葉に、丈之助は背筋に冷たいものを感じた。


 この男は、彼の正義の対極にある、私怨と金で動く獣だ。

 しかし、この極限状況では、その獣の牙こそが、自分たちの命綱となるかもしれない。


 丈之助は呻くように言った。


 「…よかろう。だが、この女の鎖から、一歩たりとも近づくな」


 かくして、丈之助、お咲、車夫の吾郎、そして三つの首級を担ぐ鉄馬という、奇妙な集団が、雪煙の中に消えた。




No.4. 島津兵吾の合流


 道中、吹雪のせいで道を見失いかけた時、彼らの前に、また一人、旅人が現れた。

 彼は丈之助や鉄馬のような武骨さとは違い、どこか優雅な着物を纏っているが、その表情は極度の疲労に歪んでいた。


 「くそ…雪が。ここはまるで氷の地獄だ。儂は島津 兵吾と申す。薩摩藩の者だ」


 島津は南国育ちの鉄馬とは違い、雪に全く慣れていない様子で、身体を抱きしめるように震えていた。

 丈之助が彼を訝し気に眺めると、島津は胸を張って言った。


 「皆々、良い知らせだ。儂は、この関所『峠の茶屋』へ、藩の意向で派遣された代官代理だ」


 「代官だと?」


 丈之助は眉をひそめた。


 「そんな話は聞いていない。それに、薩摩の藩邸留守居役の息子と聞くが、そのような者が、なぜこの信濃路の関所の代官などと名乗る?」


 島津 兵吾は、尊王攘夷の過激派として知られている。

 元新選組の鉄馬と出会わせることは、思想的な火薬庫を抱えるに等しかった。


 そして、鉄馬と同じ南国育ちでありながら、彼の着物の下に隠された藩閥の誇りが、鉄馬の異国の血を引く肌を侮蔑の目で見ていた。


 「儂の役目は公儀には関係のない、藩の内密の取り決めだ。詮索無用」


 島津は雪を払いながら、彼らの中央に立つと、全員を見回した。


 「だが、この雪では誰も通すわけにはいかん。幸い、峠の茶屋はこの先すぐだ。儂が代官として、今宵は全員をそこに留めてやろう」


 丈之助は、この島津という男の傲慢さと、この状況下での不自然な肩書きに、極度の警戒感を覚えた。

 これで、首吊りの丈之助、賞金首のお咲、車夫の五郎、賞金稼ぎの鉄馬、そして薩摩の落人・島津兵吾。


 峠の茶屋へ向かう五人が揃った。


 彼らは、雪の壁を乗り越え、吹雪の中にぼんやりと浮かぶ一軒の建物を目指し、足を踏み出した。


 その建物の名は……峠の茶屋。


 この茶屋が、地獄の蓋が閉ざされる場所になるとは、誰も知る由もなかった。


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