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大切な少女を失った老犬は、記憶の海で最後の願いを探す

作者: たかつど

 大切なものを失くしたとき、あなたはどこを探しますか?


 彼女が探しているのは、もう二度と会えない、大切な少女との日々だった。





 海沿いの誰にも見向きもされない小さな公園に、古びたベンチが一つ置かれていた。


 そこに毎晩、一匹の老いたヨークシャーテリアがやってくる。


 名前はリリィ。


 リリィは、もうずいぶん前から、そのベンチに座っていた。


 座るといっても、小さな体を丸めて、ただじっと海を眺めるだけ。


 少女がいなくなってから、リリィの毎日は、色褪せたセピア色の写真のようだった。


 あの頃は、世界はもっと鮮やかで、あらゆる音が笑い声で満ちていた。


 少女は、リリィを命よりも大切にしていた。


 それは、ただの愛玩動物に対する愛情とは違った。


 もっと深く、もっと純粋で、ひたむきな想いだった。




 リリィが少女の家に来た日のことは、今でも覚えている。


 小さな、手のひらに乗るほどの仔犬だったリリィを、少女は壊れ物に触れるように抱きしめた。


「リリィ…可愛い名前でしょ?これから、ずっと一緒だよ」


 その日から、リリィの隣にはいつも少女がいた。


 夜になれば、少女は必ずリリィを自分のベッドに招き入れた。


 ふわふわの毛布の中で、リリィは少女の温かい体温に包まれて眠った。


 夜中に少女が寝返りを打つたび、そっとリリィを抱き寄せ直す。


 その小さな仕草一つ一つに、リリィは無償の愛を感じていた。


「リリィ、大好きだよ」


 眠る前に、少女はいつもそう囁いた。


 その言葉が、リリィの心を満たしていく。


 出かける時も、もちろん一緒だった。


 公園の芝生を駆け回るリリィを、少女は目を細めて見守った。


「リリィ、待って!そんなに早く走らないで!」


 笑いながら追いかけてくる少女の声が、今でも耳に残っている。


 カフェのテラスでは、こっそり自分のクッキーを分けてくれた。


「ほら、リリィの分だよ。内緒だからね」


 誕生日には、リリィのために選んだ小さな青いリボンをつけて、一緒に写真を撮った。


「リリィ、こっち向いて!はい、撮るよ!」


 世界は二人だけの、秘密の宝物でできていた。


 ある時、リリィがひどく体調を崩したことがあった。


 呼吸が苦しそうで、熱にうなされるリリィを、少女は一晩中、つきっきりで看病した。


「リリィ、大丈夫だよ。私がずっとそばにいるから」


 その小さな手で、熱い体を何度も優しく撫でてくれた。


 心配で、心配で、一睡もせずにリリィの傍らに寄り添い、震える声で「大丈夫、大丈夫だよ」と、何度も何度も囁き続けた。


 朝になっても熱が下がらず、動物病院へ連れて行かれた。


 診察室の外で、少女は涙をこらえきれずにいた。


 リリィが無事、処置を終えて戻ってくると、少女はギュッと抱きしめ、声を上げて泣き崩れた。


「よかった…よかったよ、リリィ…」


 その温かい涙が、リリィの毛並みに染み込んだことを、今でもはっきりと覚えている。


 一度、散歩中に大きな犬に突然襲われそうになったことがあった。


 リリィの小さな体が怯えて固まった瞬間、少女は迷わずリリィの前に飛び出した。


 その小さな体でリリィを庇った。


「やめて!リリィに触らないで!」


 恐怖に顔を歪ませながらも、一歩も引かずにリリィを守ろうとした少女の姿は、リリィにとって何よりも雄々しく、そして愛おしかった。


 そんな少女との日々は、まるで色鮮やかな夢のようだった。


 リリィにとって、少女が世界の全てだった。


 その少女が、もういない。




 そんな時、古くなった耳の奥で、ざわめくような波音が聴こえる。


 それは、ただの潮騒ではない。


 リリィだけが知っている、もっと遠く、もっと深い場所からの響きだった。



 ある晩、いつものようにベンチで月を見上げていると、足元にひらりと影が落ちた。


 見上げると、そこには漆黒の毛並みを持つ、一匹の猫がいた。


「随分と古ぼけたイヌだな」


 猫は、すっと澄んだ銀色の瞳でリリィを見下ろした。


 そして、信じられないことに、人の言葉を話した。


 リリィは驚いて目を見開いた。


 猫は、まるでリリィの驚きを楽しむように、ゆっくりとしっぽを揺らした。


「そこのイヌ。お前の耳に聴こえるのは、記憶の海からの呼び声だ」


「記憶の…海?」


 リリィは小さく問いかけた。


 猫はしっぽをゆっくりと揺らし、言葉を続けた。


「そこには、まだ叶えられていない願いが眠っている。たとえば、君がずっと想っているあの子の願いも――」


 リリィの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。


 少女の願い。


 その言葉が、リリィの心を強く揺さぶった。


 猫は「フィガロ」と名乗った。


「記憶の海の底には、夜の図書館がある。消えかけた願いや、亡くなった人々の想いが本の姿になって眠っている場所だ」


 フィガロの声は、どこか皮肉めいていて、それでいて、不思議な響きを持っていた。


「君が行きたいのなら、私が案内してやろう。だが、警告しておく」


 フィガロは、真剣な眼差しでリリィを見つめた。


「記憶の海に触れた者は、その代償を払わなければならない。それでも、行くか?」


 リリィは迷った。


 もう、あの頃のような元気はない。


 遠くまで旅をする体力も、残ってはいないだろう。


 けれど、少女の願い。


 もし、もしも、少女の最後の願いがそこにあるのなら――。


 リリィがかつて少女と暮らした日々は、喜びと温かさに満ちていた。


 少女の優しい手、屈託のない笑顔、そしてリリィを包み込む愛情。


 それら全てが、リリィにとっての「光」だった。


 その光を失って以来、リリィの心は、ずっと月の裏側のように冷たく、寂しさに覆われていた。


 月がまばたく夜だった。


 フィガロは何も言わず、静かにリリィを見つめていた。


 リリィは震える前足を一歩、踏み出した。


「行く…彼女の願いを、知りたい」


 リリィの小さな声は、潮風にかき消されそうだったが、フィガロには確かに届いたようだった。


「よし。では、月の道を進むとしよう」


 フィガロはそう言うと、真っ暗な海の向こうへと、すっと消えていった。


 リリィは懸命に、その小さな体を動かし、後を追った。


 その夜から、老いたヨークシャーテリアと不思議な黒猫の、奇妙で優しい旅が始まった。


 彼らは、波の音と月のまばたきに導かれるまま、深く、深く、記憶の海へと足を踏み入れていくのだった。




 月の道は、水面に映る光の筋だった。


 一歩踏み出すごとに、足元から小さな光の粒がぱちぱちと弾ける。


 波の音が、遠くから子守唄のように響いてくる。


 リリィは、どこまでも続く白い道を、フィガロの後に続いて歩いた。


「不思議…水の上を歩いているのに、沈まない」


「ここは、現実と記憶の狭間だ。物理法則は意味をなさない」


 フィガロは何も言わず、ただひたすら前を歩き続ける。


 その背中は、闇に溶け込むほど黒く、しかし不思議なほど頼もしかった。


 やがて、光の道は途切れ、二人は暗く、底の見えない海の中へと吸い込まれていった。


 そこは、水で満たされているのに、息苦しさを感じさせない奇妙な場所だった。


 頭上を見上げれば、月明かりが水面に揺れ、きらきらと輝く無数の星のように見えた。


「ここは、記憶の海の入り口だ」


 フィガロの声が、静かに響いた。


 声には波の音が混ざり、どこか神秘的だった。


「様々な記憶が、ここに漂っている。良い記憶も、悪い記憶も。そして、忘れ去られた願いも」


 リリィの周囲を、淡い光の粒がふわふわと漂っていた。


 それは、まるで意識を持った生き物のように、リリィの体に触れては、すっと消えていく。


 その度に、リリィの心の奥底に、かすかな、けれど懐かしい感情が蘇る気がした。


 それは、もう二度と触れることのできない、少女との日々の記憶の断片だった。


 海の中を深く潜っていくと、景色は少しずつ変わっていった。


 水底には、奇妙な形をした珊瑚のようなものが生い茂り、その間を、光る魚たちがゆらゆらと泳いでいる。


 それらは魚というよりは、夢の残骸が形になったもののようだった。


「フィガロ、あれは…?」


 リリィが指し示した先には、巨大な岩の影があった。


「あそこにいるのは、この海に囚われた者たちだ」




 しばらく進むと、あたりが急に薄暗くなった。


 巨大な岩の影が迫り、まるで海の底にそびえ立つ巨大な山脈のようだった。


 その影に、いくつもの不鮮明な人影が寄り添うように座り込んでいるのが見えた。


 フィガロが、そのうちの一つの前で立ち止まった。


 それは、薄い煙のように揺らめく、若い男の影だった。


 顔ははっきりせず、ただ、何かを探すように両手を虚空に伸ばしていた。


「あれは、『夢を失った人間の影』だ」


 フィガロは静かに言った。


「かつて、熱烈な夢を追いかけたが、途中で諦めてしまった者たちのなれの果てだ。彼らは、自分の夢の残骸を探して、永遠にこの海を彷徨っている」


 リリィは、その影から、深い絶望と、しかし同時に、微かな憧れのようなものが滲み出ているのを感じた。


 少女も、たくさんの夢を持っていた。


 画家になる夢、歌い手になる夢。


 そして、リリィとずっと一緒にいる夢。


「少女の夢は…どこにあるんだろう」


 その夢は、今はどこにあるのだろう。


 リリィの心が、ぎゅっと締め付けられるようだった。


 男の影は、リリィに気づくこともなく、ただ茫然と手を探し続ける。


 その指先からは、小さな光の粒が、砂のようにこぼれ落ちていた。


 それは、かつて彼が抱いていた夢の輝きだったのだろうか。


「可哀想な人…」


 リリィは心の中で呟いた。


 フィガロは、その影に特に声をかけることもなく、先を促した。


「この海では、言葉は意味をなさない。ただ、存在と、そこから放たれる感情だけが、真実として漂っている」



 二人がさらに進むと、今度は、深い緑色の苔に覆われた、古い船の残骸が見えてきた。


 その船の甲板には、何人もの影が身を寄せ合って座っている。


 彼らは皆、どこか遠くを見つめ、口元は開いているのに、何の音も発していなかった。


「あれは、『言葉を忘れた老人たち』だ」


 フィガロが説明した。


「生前、伝えたいことが山ほどあったのに、結局、言葉にできなかった者たちだ。彼らは、今も誰かに語りかけようとしている。しかし、もう、その方法を思い出せない」


 リリィは、その影たちから、深く澄んだ悲しみを感じた。


 まるで、美しいメロディーを奏でようとしているのに、楽器の弦が切れてしまったかのような。


 彼らが伝えられなかった言葉の中に、もしかしたら、誰かへの感謝や、謝罪や、そして、誰かを愛する気持ちがあったのかもしれない。


 その中でも、ひときわ大きく見える影が一つあった。


 その老人は、誰かに話しかけるように、虚空に手を伸ばしていた。


 その指先が、かすかに震えている。


(伝えたい…そう、伝えたいんだ…)


 リリィは、その老人の影に、少女の姿を重ねた。


 少女は、たくさんの言葉をリリィに語りかけてくれた。


 嬉しい時も、悲しい時も、寂しい時も、そして、愛おしい時も。


 その言葉の全てが、リリィにとって、世界で一番大切な宝物だった。


 リリィは、ゆっくりと老人の影に近づき、その膝にそっと頭を乗せた。


 小さな、温かい毛玉が触れたことで、老人の影は、ほんのわずかだが震えを止めたように見えた。


 リリィは、彼から、失われた言葉の代わりに、穏やかな、優しい感情が流れ込んできたのを感じた。


 それは、ありがとう、という言葉だった。


 フィガロは、その光景をただじっと見ていた。


 彼の銀色の瞳には、何の感情も読み取れない。


 しかし、その耳が、ぴくりと動いたのをリリィは見逃さなかった。


「行こう。夜の図書館は、もうすぐだ」




 記憶の海は、どこまでも深く、そして広大だった。


 そこで出会う影たちは、皆、それぞれの喪失を抱え、静かに漂っていた。


 リリィは、彼らとの短い出会いの中で、人間の持つ可能性の、無限の広さと、そして同時に、脆さを感じていた。


 夢を失い、言葉を忘れても、なおそこに存在する、純粋な感情の輝き。


 それは、リリィが少女から教わった、限りない優しさによく似ていた。


 さらに深く潜っていくと、水の圧力が、少しずつリリィの体を重く感じさせた。


 あたりは、ますます暗くなり、遠くで光る魚たちの輝きだけが、唯一の道標だった。


 水底には、朽ちた門のようなものが見えてきた。


 巨大な石でできたその門は、苔と藻に覆われ、まるで太古の遺跡のようだった。


「あれが、『夜の図書館』だ」


 フィガロの声が、暗闇の中で響いた。


 リリィの心臓が、ドキンと大きく鳴った。


 少女の願いが、そこにある。


 そう思うと、体の奥から、失いかけていた力が湧き上がってくるようだった。


 門をくぐると、そこは、水の中とは思えない不思議な空間だった。


 水泡がゆっくりと舞い上がり、天井からは、淡い光が降り注いでいる。


 その光に照らされて、無限に続くかのように、背の高い本棚がそびえ立っていた。


「すごい…」


 リリィは思わず息を呑んだ。


 どの本棚にも、ぎっしりと本が詰まっている。


 本の背表紙は、どれも真っ白で、タイトルは書かれていない。


 しかし、その一つ一つから、微かな光が放たれており、それぞれ異なる色の光を帯びていた。


「この図書館に並べられているのは、消えかけた願いだ」


 フィガロが言った。


「人々の心から忘れ去られそうになっている願い、あるいは、叶えられることなく終わってしまった願い。そして、この世を去った者たちが、最後に抱いた願い…」


 フィガロは、本棚の間を迷いなく進んでいく。


 リリィは、その背中を追う。


 本の山は、どこまでも続き、その光の海に圧倒されそうだった。


 どの本も、誰かの願いなのだ。


 そのことを思うと、リリィの胸は締め付けられた。




 リリィは、本棚の間の通路をゆっくりと歩いた。


 それぞれの本から放たれる光は、時に喜びのように輝き、時に悲しみのようにくすんだ色をしていた。


 触れると、その本が持つ「願い」の片鱗が、微かにリリィの心に流れ込んでくる。


 病気の家族の回復を願う声。


 報われない恋を成就させたいと願う切ない想い。


 遠い故郷に帰りたいという郷愁。


 そして、誰かの幸せをただひたすら願う、無私の祈り。


 その中に、ひときわ明るく輝く本があった。


 それは、他の本よりも少し小さく、淡いピンク色の光を放っていた。


「あれ…」


 リリィは、その本に導かれるように、ゆっくりと近づいた。


 足が、自然とそちらへ向かう。


 心臓が、激しく鳴り響く。


 その本に触れた途端、リリィの目の中に、まばゆい光景が広がった。


 少女の、満面の笑顔だった。


「これは…」


 その本は、少女が書いた「いちばん最後の願い」だった。


 リリィは、震える前足で、その本のページをそっとめくった。


 表紙には、少女が描いた、幼いリリィの絵が描かれていた。


 少し下手だけど、愛情に満ちた、温かい絵。


 そして、その絵の下には、まだ拙い文字で、こう書かれていた。


「リリィが、もう寂しくありませんように」


 その文字を見た瞬間、リリィの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた


 ポロポロと、とめどなく流れ落ちる涙は、記憶の海の水と混じり合い、きらめく光の粒となって消えていく。


 リリィが、寂しくありませんように。


 リリィが、誰よりも少女を想い、失われた日々を嘆いていたことを、少女は知っていたのだ。


 そして、その寂しさを、何よりも心配していたのだ。


 ページをさらにめくると、そこには少女の言葉が綴られていた。


「リリィ、ごめんね。もう一緒にいられなくなっちゃった」


「でも、リリィが悲しまないでほしいの」


「リリィは、私にとって、世界で一番大切な存在だったから」


「だから、リリィにも幸せでいてほしい」


「いつか、また会えるよね」


「その時は、また一緒に遊ぼうね」


「リリィ、大好き」


 少女との日々が、走馬灯のようにリリィの脳裏を駆け巡った。


 寝る時も一緒だった温もり。


 出かける時に少女がリリィを抱きしめた時の優しい腕の力。


 具合が悪くなると一晩中撫でてくれた温かい手。


 動物病院で涙を流しながら心配してくれた優しい瞳。


 そして、散歩中に身をていして守ってくれた、あの勇敢な後ろ姿。


 少女は、どんな時も、リリィを一番に考えてくれていた。


 リリィの幸せを、何よりも願ってくれていた。


 リリィは、嗚咽をこらえきれずに震えた。


 胸の奥から、今までに感じたことのない、しかし限りなく温かい感情が込み上げてきた。


 それは、深い悲しみと、しかしそれ以上の、計り知れない感謝と愛情が混じり合ったものだった。


「ありがとう…ありがとう…だいすき…」


 リリィは、その本をそっと咥え、深く感謝するように頭を垂れた。


 フィガロは、リリィの隣に静かに立っていた。


 彼の銀色の瞳は、何も言わなかった。


 しかし、そのまなざしは、どこか優しさに満ちていた。


「さあ、帰ろう」




 少女の願いを見つけたリリィは、フィガロと共に「夜の図書館」を後にした。


 来た時と同じ、月の道が、二人の帰路を照らしていた。


 しかし、記憶の海に触れた代償は、少しずつリリィの身に現れていた。


 体が、光の粒となって、はらはらと消え始めている。


 それは、まるで、夜明け前の朝露のように、触れると形を失っていくようだった。


「フィガロ…私の体が…」


「ああ。記憶の海に触れた代償だ」


 フィガロは、そのことに気づいていた。


 リリィが記憶の海へと足を踏み入れた時から、この結末を知っていたのだろう。


「でも、後悔はしていないか?」


「うん…後悔なんて、少しもない」


 リリィは微笑んだ。


 少女の願いを知ることができた。


 それだけで、リリィは十分だった。


 フィガロは、リリィの傍らを静かに歩き、時に、その小さな体を気遣うように、そっと寄り添うだけだった。


「なあ、リリィ」


「何?」


「お前は、良い犬だったな」


 フィガロの言葉に、リリィは驚いた。


 フィガロが、初めて自分を認めてくれたような気がした。


「ありがとう、フィガロ」


 リリィは、自分の体が薄れていくことに気づいていた。


 しかし、恐れはなかった。


 むしろ、少女の願いを見つけた今、リリィの心は、不思議なほど満たされていた。


 寂しさも、悲しみも、全てが洗い流され、残るのは、温かい感謝の気持ちだけだった。



 夜が明けるころ、月の道は、いつの間にか穏やかな海辺に続いていた。


 そこには、リリィが毎晩座っていた、あの小さなベンチが見える。


 リリィの体は、ほとんど透明になっていた。


 かろうじて形を保っているだけの、光の塊のようだった。


 フィガロが、ベンチの傍で立ち止まった。


「ここまでだ」


「うん…ありがとう、フィガロ」


 リリィは、最後の力を振り絞って、ベンチへと歩み寄った。


 そして、いつものように、そこに小さな体を丸める。


 朝日が水平線から顔を出し、世界がゆっくりと色を取り戻していく。


 温かい光が、リリィを包み込む。


「フィガロ…会えるかな」


「ああ、きっとな」


 フィガロは、優しく答えた。


 リリィの意識は、薄れていく。


 最後に、少女の面影の残る、夢のような景色が見えた。


 幼い少女が、屈託のない笑顔で、リリィに手を伸ばしている。


「リリィ!」


 その声が、遠くから聞こえる。


 ああ、少女だ。


 あの優しい、愛おしい少女の声だ。


「待っててね、今行くよ」


 リリィは、幸せだった。


 そして、その夢の中で、最後に、そっとしっぽを振った。


 少女の笑顔を見ながら、リリィは静かに目を閉じた。


 温かい朝の光の中で、老いた犬の姿は、光の粒となって消えていった。


 フィガロもまた、闇の中へと消えていった。




 ――静かに、波音が止む。


 その町の海辺には、今も古いベンチがある。


 月がまばたく夜、そこに座ると――小さな犬の気配がする、と言われている。


 ある日、一人の少女が母親と散歩をしていた。


 夕暮れ時、二人は海辺の公園を通りかかった。


「ねぇ、ママ。あのベンチ、誰もいないのに、なんだか温かい感じがするね」


 少女は、古いベンチを指差した。


 母親は微笑んで答えた。


「そうね。きっと、誰かの大切な思い出が、ここに残っているのよ」


 少女は、ベンチに近づき、そっと手を伸ばした。


 すると、不思議なことに、目には見えないけれど、何か小さくて温かいものが、自分の手に触れた気がした。


「ねぇ、ママ。今、何かが…」


「何か感じた?」


「うん。小さな犬が、しっぽを振ってくれた気がするの」


 母親は、優しく少女の頭を撫でた。


「きっと、あなたに会えて嬉しかったのよ。優しい子には、そういうことがあるものよ」


 少女は、もう一度ベンチを見つめた。


 そこには、誰もいない。


 でも、確かに、温かい気配がした。


 少女は、小さく手を振った。


「また来るね」


 そう呟くと、母親と手を繋いで、夕暮れの道を歩いていった。


 海辺には、静かな波の音だけが響いている。


 そして、古いベンチの上には、月明かりが優しく降り注いでいた。


 リリィは、今も、あの場所にいる。


 少女との思い出と共に。


 そして、新しい出会いを、温かく見守りながら。


 記憶の海で見つけた、少女の最後の願い。


「リリィが、もう寂しくありませんように」


 その願いは、今も、リリィの心の中で輝いている。


 寂しくなんて、ない。


 だって、少女の愛は、今もリリィと共にあるのだから。


 そして、いつか、また会える日まで。


 リリィは、この場所で、静かに待ち続けるのだった。




【完】


どうでしょうか?

私の飼っていた愛犬が虹の橋を渡って行きました。

幸せだったと願いたいです。




ギャグもよろしかったら読んで下さい。

異世界に召喚されたけど、帰る条件が「焦げない鮭を焼くこと」だった 〜千田さん家の裏口は異世界への入口〜

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