『夕霧物語』「夕霧太夫のゆびきりげんまん」
月の冴える冬の深夜、夕霧太夫の座敷にはあたし一人が侍していた。
贔屓の客が去り、まめぞうらお付きの者も他の禿も別室に下がり、先ほどの賑やかさが潮が引くように静かになっていた。
「伊左衛門は、いるかえ」
夕霧太夫の寂しげな声がした。
「はい、太夫。ここに控えてございます」
「こっちへ、おいで」
夕霧太夫の座敷にはなんぴともそこを開けてはならない隠し戸がある。
ただ、夕霧太夫のお呼びがあった時だけは中に入ることが許される。年に一度あるかないかの僥倖。
それが今だった。
あたしは打ち震えながら隠し戸を開けて膝をつき、にじり入る。
中は十畳ほどの広さ。調度はすべて黒檀で、落ち着いているが凛とした空気が漂っていた。
部屋の中央に青白い月光が差し込んでいる。外戸が開け放たれているのだ。
見ればその月影に夕霧太夫のお姿が染め抜かれている。
夕霧太夫は欄干に凭れて夜の景色を眺めていたのだった。
東海道一と謳われる名妓、夕霧太夫。もともとこの世の者とは思えぬ横顔を冬の月がいっそう凄惨に映して美しい。
「伊左衛門、近こう」
太夫はあたしを側に呼んだ。
「はい、太夫」
あたしが太夫の足下ににじり寄ると、
「伊左衛門や、あたしはもうじき死にます」
と夕霧太夫は寂しそうに言われた。
「そんな」
あたしは二の句を告げぬまま、嗚咽した。
これまで夕霧太夫のお言葉は必ずそうなった。
あたしが水際に打ち上げられて藻屑のように横たわっていた時も、
「この者をあたしの部屋へ連れて行く」
と言っていただき本当になった。
だからきっとご自分のお命のこともまた、かならずやそうなるのだ。
「わらわが死んでひと月たったらむくろを掘り起こし、辻沢にある青墓の杜にきっと連れて行っておくれ」
あたしは辻沢という場所は知らなかったが、青墓の名なら聞いたことがあった。
この宿場の太夫の中にも青墓出の方がおられるし、禿仲間のひいらぎも青墓から流れてきたそうだ。
一つ不安があった。
「仰せの通りに。ただ、伊左衛門は辻沢への行き方がわかりませぬ」
夕霧太夫はその慈しみ深い目をあたしに向けて、
「ならば、これを」
と言うと右の薬指を咥え、強く噛みしめた。
夕霧太夫の口の中で、
ゴリ
と音がして、口の端から生血がしたたり落ちる。
あたしが慌てて懐紙を差し上げると、夕霧太夫はもう一方の手で懐紙を取り、咥えた方の手を口から離してそれで押さえた。
そしてあたしに掌を出すように促すと、その上に何かを吐き出した。
指だった。
夕霧太夫の口元から赤い糸を引いて、血に染まった薬指があたしの掌の上に乗っていた。
「伊左衛門や、それをお持ちやれ。さすればきっと迷いなく着ける」
あたしは月を背にした夕霧太夫の影にひれ伏し、その薬指を恭しく頂いた。
夕霧太夫は満足そうに頷くと、懐紙に口の中の生血を吐き出し、再び欄干に凭れて夜空を仰ぎ見た。そして、
「エニシの月よ」
と歌うように言った。
あたしは夕霧太夫から頂いたものを懐に収め、奥の間を辞したのだった。
(毎日2エピソード更新)
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