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水が生まれる場所

作者: 久遠 睦

第一部 都会の静寂


第一章 八時四分の御堂筋線


午前八時四分、梅田へ向かう御堂筋線は、すでに通勤客で体を寄せ合うほどの混雑を見せていた。ドアの近くにどうにか場所を見つけた明里あかりは、暗い窓ガラスに映る自分の顔に視線を落とした。三十三歳。少し疲れた、見慣れた顔。彼女は西区京町堀にある小さなデザイン事務所で働くグラフィックデザイナーで、この電車は淀屋橋で降りてオフィスへと歩く、決まりきった軌道だった 。

淀屋橋で人波に揉まれて地上に出ると、彼女は土佐堀川沿いをオフィスに向かって歩いた。川の向こうには緑豊かな中之島公園が広がり、赤レンガの中央公会堂や重厚な石造りの図書館といったレトロな建築物が、現代的な高層ビルと不思議な調和を見せている。川沿いの遊歩道では、犬を散歩させる人や、朝のジョギングに励む人々の姿が見える。それは、明里がとうに失ってしまった、穏やかで身体的な自由の世界のように思えた 。

日本有数の大都市、大阪。全てが揃い、どこへ行くにも便利なこの街は、絶えず人々が行き交う巨大な装置のようだった。しかし明里にとって、それはただ仕事のために身を置く場所であり、心から根を下ろす場所ではないという感覚が常にあった。高層ビルが空を覆い、アスファルトの道がどこまでも続く。この固定されたレールの上を高速で移動しながら、人生はどこにも向かっていない。そんな感覚が、ここ数年、彼女の心に重くのしかかっていた。

かつて情熱を注いだデザインの仕事は、今ではクライアントの気まぐれな修正依頼と、終わりの見えない残業の繰り返しに成り果てていた 。創造性はすり減り、ただ言われたことを形にするだけの作業。三十代独身という現実も、じわりと不安を煽る。結婚し、子供を育て、着実に人生の駒を進めていく友人たちのSNSを見るたびに、自分だけが取り残されていくような焦燥感に駆られた 。この街は、そんな彼女の心のありようを映し出す鏡のようだった。便利で刺激的、しかしどこか閉塞感が漂う。川の静かな流れだけが、変わらずそこにあった。


第二章 ガラス張りの森


週末の午後、明里は吸い寄せられるように大阪駅前のグランフロント大阪にいた。ガラス張りのモダンな外観が特徴的なその巨大複合商業施設は、今や大阪のランドマーク的存在だ 。彼女は目的もなく、洗練されたショップやカフェが並ぶ広大な空間を彷徨った 。人々は皆、ここで売られている「上質な生活」を体現しているように見え、明里は自分が場違いな存在であるかのように感じた 。

北館にある「ナレッジキャピタル」に足を踏み入れると、未来的な展示やワークショップが並び、知的好奇心を刺激する空間が広がっていた。しかし、その計算され尽くした空間は、彼女にはどこか現実離れしているように感じられ、心を落ち着かなくさせた 。ここは、彼女が仕事で作り出している世界と同じだった。美しく磨き上げられているが、どこか空虚な、キュレーションされた現実。

旅のコーナーで、彼女はふと一冊の大型写真集を手に取った。『瀬戸内 光と時の島々』というタイトルだった。ページをめくると、直島の赤いカボチャや犬島の精錬所跡など、見慣れたアート作品の写真が続く 。しかし、ある見開きページで彼女の指が止まった。

そこに写っていたのは、緑の棚田に抱かれるように佇む、白く滑らかなシェル構造の建物だった 。キャプションには「豊島美術館。一日を通して、地面から水が生まれる空間」とあった。その写真から伝わってくるのは、静かで、絶え間ない、自然な創造の営みだった。クライアントの承認を得るために、無理やり絞り出す自分の仕事とは対極にある世界。そのイメージは、乾いた心に染み込む一滴の水のように、彼女を強く惹きつけた。


第三章 係留を解く


月曜日の朝、限界は突然やってきた。金融商品のための、明るく当たり障りのないキャンペーンデザイン。週末を返上して取り組んだにもかかわらず、クライアントからのフィードバックは無機質な赤字で埋め尽くされていた 。一睡もせずに迎えた朝、空っぽになった頭と心で、明里は短い辞職願をメールで送り、オフィスを後にした。

気づけば、彼女は中之島公園にいた 。芝生広場に座り込み、ぼんやりと川面を眺める。やがて太陽が西に傾き、対岸のビル群の窓ガラスをオレンジ色に染めながら、橋の向こうに沈んでいった 。人の手が入っていない、ありのままの自然の美しさ。その広大な風景の中で、堂島川が絶えず海へと向かって流れていくのを見ていると、自分もそうしなければならないという強い衝動に駆られた 。

明里はスマートフォンを取り出した。夕闇の中で画面の光が際立つ。ほとんど衝動的に、彼女は岡山県の宇野港から豊島の家浦港へ向かうフェリーのチケットを予約した 。それは計画性のない行動だったが、今の自分にできる唯一の、そして最も正しい一歩のように思えた。中之島の岸辺で、彼女は自らを繋ぎとめていた見えない係留索を、静かに解き放ったのだ。


第二部 心臓の鼓動がする島


第四章 潮と土の匂い


宇野港から出航したフェリーは、穏やかな瀬戸内の海を滑るように進んだ 。次第に遠ざかっていく本州の景色を眺めながら、明里は自分が何か大きなものから解き放たれようとしているのを感じていた。

豊島の家浦港に降り立つと、潮の香りと、ディーゼル燃料の匂い、そして湿った土の匂いが混じり合った空気が彼女を迎えた。大阪の喧騒とは全く違う、ゆったりとした時間が流れている。港の近くでは、島の老人たちがのんびりと会話を交わし、猫が温かい石垣の上で眠っていた。

明里は港のすぐそばで電動アシスト自転車を借りた 。最初は少しふらついたが、モーターが静かに坂道を押し上げてくれる感覚は、すぐに爽快感に変わった。地図は見ずに、気の向くままにペダルを漕ぐ。古い家々の間からきらめく海が見え隠れし、陽光を浴びた棚田が広がる 。自転車を漕ぐ身体的な疲労、顔に当たる風、鳥や虫の声。五感を満たす圧倒的な情報が、頭の中の不安な独り言をかき消していった。電車での受動的な移動とは違う、自らの力で風景と一体になるこの感覚は、彼女にとって新鮮な体験だった。それは、思考から身体へと意識を取り戻すための、必要な儀式だったのかもしれない。

第五章 水が生まれる美術館

自転車を走らせ、小高い丘を登ると、視界が開けた。陽光を反射してきらめく棚田の中に、あの写真で見た白いドームが静かに佇んでいた 。豊島美術館。明里は自転車を停め、ゆっくりと小道を歩いた。

靴を脱いで中に入るよう促され、素足で冷たいコンクリートの床に足を踏み入れた 。そこは、柱が一本もない、広大で静寂な空間だった 。天井に開いた二つの大きな開口部からは、空の光と風、そして鳥の声が流れ込んでくる。

彼女は、床に点在する小さな穴から、水滴が生まれる瞬間をじっと見つめた。生まれたばかりの水滴は、互いに引き寄せられるように集まり、細い糸となって床の緩やかな傾斜を滑り落ちていく。やがてそれは小さな流れとなり、音もなく床の格子へと吸い込まれて消えていった 。

最初、明里はそれをアートとして理解しようとした。しかし、そのゆっくりとした、絶え間ない営みは、あらゆる解釈を拒絶するようだった。彼女は床に横たわり、コンクリートの冷たさを背中に感じた。風の音、遠くで鳴く鳥の声、そして水の微かな音だけが空間を満たしている。目を閉じると、何年もの間、心の奥底に溜まっていた何かが、堰を切ったように溢れ出した。それは悲しみの涙ではなかった。ただ、解放されるための涙だった。床を流れる水は、ようやく流すことを許された彼女自身の涙のようだった。その日、明里は光が移ろうのをただ眺めながら、何時間もそこで過ごした。


第六章 命の書庫


美術館を後にした明里は、海沿いの小さな建物「心臓音のアーカイブ」へと向かった 。暗い部屋に入ると、一つの裸電球が、録音された心臓の鼓動に合わせて点滅し、重低音が空間に響き渡っていた 。彼女はヘッドフォンをつけ、見知らぬ誰かの生命のリズムに耳を澄ませた。それはとても個人的でありながら、同時に普遍的な、生の証だった。

隣の部屋で、彼女は勝也と名乗る七十代後半の男性に出会った。ここでボランティアをしているという彼は、穏やかな島の方言で話しかけてきた。明里が熱心に展示を見ていることに気づくと、彼はアートの話ではなく、島の歴史について語り始めた。アーティストたちが来るずっと前の、漁業と採石で栄えた「豊かな島」だった頃の話 。

そして、彼の話は静かに、しかし確かな重みを持って、産業廃棄物の不法投棄問題へと移っていった。彼は窓の外の、今は緑に覆われた丘を指さし、有害物質に汚染された島を元の姿に戻すための、住民たちの何十年にもわたる闘いについて語った 。かつて「ゴミの島」と呼ばれた屈辱と、未来の世代のために美しい故郷を取り戻すという強い決意。そして、その闘いがまだ終わっておらず、今も地下水の浄化が続いているという事実 。

明里は衝撃を受けた。自分が逃れてきたこの場所は、単なる美しいアートの島ではなかった。深い傷を負い、それでも自らの力で癒やされようともがき続けてきた場所だったのだ。島のその姿は、自分自身の心の傷と、これから始まるであろう再生の道のりと、静かに重なった。


第七章 陽の光を味わう


手描きの小さな看板に導かれ、明里は古い民家を改装したカフェを見つけた。「海のまど」という名のその店は、大きな窓から穏やかな瀬戸内海と棚田が見渡せる、素朴で美しい場所だった 。

店主の由美は、四十代半ばの、落ち着いた雰囲気の女性だった。明里は、その日のランチセットを注文した。島の漁師が獲った魚のグリル、棚田でとれたご飯、島の野菜を使ったサラダ、そしてシンプルなスープ 。どれも素材の味が濃く、生命力に溢れていた。デザートには、豊島産の甘いレモンを使ったケーキと、自家製のいちごシロップのソーダを頼んだ 。一口食べるごとに、身体の中に太陽の光が満ちていくような感覚だった。

食事をしながら、由美は自らの過去を話してくれた。彼女もかつて東京で雑誌編集者として働き、明里と同じように燃え尽きてしまったのだという 。十年前にふらりと訪れたこの島に魅せられ、移住を決意。この古民家を少しずつ改装し、カフェを開いたのだと 。二人は、都会の喧騒と島の静けさについて、仕事のプレッシャーと季節と共に生きる喜びについて、静かに言葉を交わした。由美の穏やかな佇まいは、明里に「成功」や「幸せ」には多様な形があることを、言葉以上に雄弁に物語っていた。


第三部 未来への潮流


第八章 別れの贈り物


豊島での最後の日、空はどこまでも青く澄み渡っていた。明里は荷物をまとめ、別れの挨拶をするために由美のカフェを訪れた。

「ありがとう、ございました」。短い言葉に、たくさんの感謝を込める。由美はただ微笑み、ラベルのない小さなガラス瓶を差し出した。「道中、気をつけて」。中には、島の太陽をたっぷり浴びて育ったレモンで作った、淡い黄色のシロップが入っていた 。

また会う約束も、連絡先の交換もない。それは、旅先で出会った束の間の、しかし確かな心の交流だった。レモンシロップの甘酸っぱい香りは、この島の優しさと、由美の静かな励ましの記憶として、明里の心に深く刻まれた。

第九章 船尾からの眺め

家浦港を出航するフェリーの船尾に立ち、明里は遠ざかっていく島影をじっと見つめていた 。風が髪を激しく揺らす。家々の連なりが、緑の丘が、次第に小さくなり、やがて水平線に溶けていく。心に広がるのは喪失感ではなく、静かな感謝の気持ちだった。

これからどこへ向かうのか、何をするのか、具体的な計画は何もない。けれど、あれほど重くのしかかっていた過去の人生の重圧は、嘘のように消えていた。未来への不安が、未知への好奇心へと姿を変えていた。

彼女は港の売店で買ったスケッチブックを取り出した。仕事以外で自分のために何かを描くのは、何年ぶりのことだろう。真っ白なページを開き、フェリーが水面に描く航跡を、震える手で描き始めた。最初はためらいがちだった線は、次第に力強さを増していく。誰のためでもない、自分自身のための線。豊島への旅は終わりを告げたが、彼女自身の本当の旅は、今、始まったばかりだった。


エピローグ 半年後


半年後。明里は、瀬戸内海に面した小さな港町の、日当たりの良いアパートに住んでいた。机の上には、豊島の海の色や光の質感をテーマにしたイラストレーションが何枚も並んでいる。生活は質素で、近くのカフェでアルバイトをしながら、どうにか生計を立てていた。しかし、彼女の表情は穏やかで、満ち足りていた。

ある日、郵便受けに一枚の絵葉書が届いていた。秋色の棚田の写真。裏には短いメッセージが記されていた。

「また、レモンの季節が来ました。お元気で。――由美」

明里は微笑み、その葉書を机の上に立てかけた。そして、描きかけの絵に向き直る。筆を持つ彼女の手が、次の一筆を引くために、静かに宙で止まった。その先には、無限の可能性を秘めた、真っ白な未来が広がっていた。


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