第98話 写し世でのチヨ
わたしは、ここから見ている。 あなたが朝を迎えるたび、 新しい写真を撮るたび、 誰かを想うたび。
名前はもうない。 でも、愛は残った。
写し世から、現世へ。 わたしの祈りは、今も―― あなたの中で、息をしている。
それが、永遠の愛の形。 忘れられても、消えない光。
写し世と現世を結ぶ者たちよ
夢を写す者が現れし時
新たな道は開かれん
記憶と忘却の調和を保ち
永遠の愛は形を変えて続く
――『霧姫伝説・新章への予言』より
■写し世でのチヨ
白い空間が、どこまでも広がっている。
ここは写し世――現世の裏側に存在する、記憶と魂の領域。時間の流れも、空間の概念も、現世とは異なる法則に支配されている。光と影が混在し、過去と未来が交差する、不思議な世界。
チヨは、その中心に佇んでいる。
もはや肉体はない。しかし、意識は鮮明で、むしろ現世にいた時よりも研ぎ澄まされている。白い着物は光そのもので織られ、長い黒髪は星屑のように輝いている。金色の瞳は、現世と写し世の両方を見通すことができる。
「ルカ...」
愛する妹の名を呼ぶ。声は風となって、世界の境界を越えていく。でも、もう届かない。完全な忘却の壁が、二つの世界を隔てている。
それでも、チヨは毎日欠かさずルカの名を呼ぶ。朝の挨拶、昼の見守り、夜の子守唄。声は届かなくても、想いだけは送り続ける。
チヨの周りには、歴代の写し手たちがいる。祖母の千代、母の美咲、そして名も知らぬ先達たち。皆、同じように世界を守るために自己を犠牲にした巫女たち。
彼女たちは、それぞれ異なる時代を生き、異なる形で封印を守ってきた。ある者は戦乱の世で、ある者は飢饉の時代に、ある者は近代化の波の中で。でも、皆同じ運命を辿った。
「もう、慣れたかしら?」
美咲が優しく問いかける。母の姿は、生前よりも若々しく、生命力に満ちている。写し世では、魂が最も輝いていた時の姿で存在できるのだ。
「はい、母様。でも...」
「辛いわね。完全に忘れられるというのは」
千代が静かに言った。初代の巫女である祖母の瞳には、深い理解と共感が宿っている。彼女は最も長く写し世にいて、最も多くを見てきた。
「私たちも同じよ。愛する者に忘れられる苦しみは、何百年経っても慣れることはない」
チヨは頷いた。封印を完成させてから、もう随分と時が経った。写し世の時間は曖昧だが、現世では季節が巡っているのが分かる。
春の桜、夏の蝉時雨、秋の紅葉、冬の雪。すべてを写し世から見守っている。でも、その美しい光景の中に、自分の居場所はない。
「でも、見てご覧なさい」
美咲が手を振ると、空間に現世の光景が映し出された。それは、写し世の特別な力。愛する者たちの今を、見ることができる。
■ルカを見守る日々
そこには、日常を送るルカの姿があった。
朝、二人分の朝食を作っては一人分を片付ける妹。その習慣の理由を理解できずに首を傾げながらも、続けている。
今朝も、味噌汁を二つ作ってしまったルカ。豆腐とネギの味噌汁。チヨが好きだった具材を、無意識に選んでいる。
「私のために...」
チヨの目に涙が浮かんだ。記憶は消えても、体に染み付いた習慣は残っている。それは、姉妹の絆の証。
卵焼きを作るルカの手つきを見て、チヨは微笑んだ。砂糖を多めに入れる癖も、ちゃんと受け継がれている。
「そうそう、そのくらいの甘さが美味しいのよ」
届かない声で、料理の指導をする。それが、チヨの日課の一つだった。
学校で絵を描くルカ。白い着物の女性の後ろ姿を、何度も何度も描いている。顔は描けない。でも、諦めずに描き続けている。
「私の顔、思い出せないのね...」
切ないけれど、それでいい。ルカが自分を探し続けてくれることが、何より嬉しい。
美術の時間、ルカは今日も白い着物の女性を描いていた。以前より、線が繊細になっている。まるで、記憶の奥底から少しずつ何かを引き出しているかのように。
「上手になったわね、ルカ」
チヨは妹の成長を誇らしく思った。絵の才能は、確実に開花している。
そして、毎日欠かさず村の写真を撮る姿。まるで、誰かの代わりに記録を残すかのように。
今日も、ルカは魂写機を持って村を歩いている。朝霧、石畳、古い家並み。チヨが愛した光景を、同じアングルで撮影している。
「あの子は、無意識のうちにあなたの意志を継いでいるのよ」
美咲が言った。
「血の絆は、記憶を超えて受け継がれる」
「でも、母様。ルカは苦しんでいます」
チヨは、妹の表情に時折現れる影を見逃さなかった。誰かを探している、でも見つからない。その苦しみが、ルカを蝕んでいる。
「それも、運命なのよ」
千代が静かに言った。
「影写りの巫女の系譜。いずれ、彼女も目覚める」
■健司への想い
チヨは妹の成長を見守り続けた。
友達と笑い合う姿、勉強に励む姿、時々見せる寂しそうな表情。すべてが愛おしく、そして切ない。
触れることも、声をかけることもできない。ただ、見守ることしかできない。
「ごめんね、ルカ」
何度も謝った。でも、後悔はしていない。ルカが生きている。それだけで十分だった。
健司のことも見守っている。
診療所で真摯に患者と向き合う姿。白衣姿の健司は、日に日に頼もしくなっている。村人たちからの信頼も厚い。
「佐藤先生、今日もお願いします」
「はい、任せてください」
患者一人一人に丁寧に向き合う健司。その優しさは、昔から変わらない。
医学書を読みながら、時々ぼんやりと宙を見つめる姿。その時の表情が、とても寂しそうで、チヨの胸が痛む。
「健司さん...」
彼の机の上には、いつも同じ医学書が置かれている。チヨが贈った本。献辞は滲んで読めなくなっているが、大切に扱われている。
そして、たまにルカの様子を見に来てくれる姿。
「ルカちゃん、最近どう?」
「あ、健司先生。相変わらずです」
「そっか...何か困ったことがあったら、いつでも相談して」
「はい、ありがとうございます」
二人の会話を見守りながら、チヨは複雑な気持ちになる。健司はルカを妹のように気にかけてくれている。でも、それは自分への想いの名残なのか、それとも――
「あなたも...忘れてしまったのね」
それでいい。新しい人生を歩んでほしい。自分のことなど忘れて、幸せになってほしい。
でも、健司もまた、無意識のうちに独身を貫いていた。まるで、心の奥で誰かを待っているかのように。
看護師の田中さんが、また健司に聞いている。
「先生、今度の合コン、参加されます?」
「いえ、遠慮しておきます」
「もったいない。先生みたいな人、すぐに相手が見つかりますよ」
「そうですかね...」
健司の曖昧な返事。彼は、なぜ自分が恋愛に興味を持てないのか、分からないでいる。




