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第91話 忘却の始まり

夢で見たの。 白い服の人が、雨の中で傘もささずに立ってて―― わたしの名前を呼んだ気がする。


覚えてないのに、懐かしくて、 悲しいのに、あたたかくて。


忘れたはずの何かが、わたしの中で揺れていた。


記憶は雨となりて降り注ぐ

金色の光は愛の証

忘れし者も、忘れられし者も

やがて巡り会う定めにあり

写し世の扉は、いつか開かれん

――『霧姫伝説・転生の章』より


1994年5月25日、午後11時。


満月が天頂に昇り、夕霧村は不思議な静寂に包まれていた。封印が完成してから数時間。村には深い変化が訪れていた。紫の霧は完全に消え去り、代わりに清浄な白い霧が村全体を優しく包んでいる。


その霧は、まるで生きているかのように呼吸していた。吸い込むと、かすかに甘い香りがする。いや、香りというより、懐かしさそのものが漂っているような――そんな不思議な感覚だった。


■忘却の始まり


井戸の前で、ルカは呆然と立ち尽くしていた。なぜ自分がここにいるのか、よく分からない。手には古い懐中時計を握りしめている。七時四十二分で止まった、美しい銀の時計。蓋を開けると、繊細な花の模様が月光を反射して、青白く輝いた。


「これ...誰の?」


小さくつぶやく。15歳の少女の頬には涙の跡があったが、なぜ泣いていたのか思い出せない。頬に手を当てると、まだ涙は温かかった。つい今しがた泣いていたはずなのに、理由が霧の中に消えてしまったような――


井戸を覗き込む。深い闇の底に、何かが沈んでいるような気がした。大切な何かが、そこに落ちてしまったような。でも、それが何なのか、どうしても思い出せない。


「ルカちゃん」


健司の声がした。25歳の研修医も同じように困惑した表情で立っている。白衣は土で汚れ、眼鏡は少し曲がっていた。まるで、何かと格闘したかのような――


「健司さん...私たち、何してたんでしたっけ?」


「分からない...でも、何か大切なことがあった気がする」


健司は井戸の縁に手をついた。その手が微かに震えているのを、ルカは見逃さなかった。医師である彼が、これほど動揺しているのは初めて見る。


「ここで...誰かと一緒にいたような」


健司の言葉に、ルカの胸がきゅっと締め付けられた。そう、三人でいたはずだ。自分と、健司さんと、そして――


「誰だろう...」


二人は顔を見合わせた。井戸の周りには九つの石柱が円形に配置されているが、それが何のためのものか分からない。石柱の表面には、かすかに文字のようなものが刻まれていたが、月光でも判読できない。ただ、胸の奥に言いようのない空虚感があった。


まるで、心臓の一部をもぎ取られたような、深い喪失感。


■金色の記憶の雨


突然、空から小さな光の粒子が降り始めた。


最初は、蛍かと思った。でも、蛍にしては数が多すぎる。そして、動きが違う。まるで、空から零れ落ちる涙のように、真っ直ぐに降りてくる。


「雨...?」


ルカが手を伸ばすと、それは雨ではなく、金色に輝く光の粒だった。触れると温かく、懐かしい感覚がある。でも、何が懐かしいのか分からない。


光の粒子は、手のひらに落ちるとすぐに消えてしまう。でも、消える瞬間、何かが見えた気がした。白い着物、長い黒髪、優しい微笑み――


「あっ...」


ルカは思わず声を上げた。今、確かに誰かの顔が見えた。でも、次の瞬間にはもう思い出せない。


「不思議な現象だな」


健司が医師らしい観察眼で光の粒子を見つめる。一粒を指先で受け止め、じっと観察する。


「物質ではない...エネルギー体のようなものか。でも、温度がある。そして...」


健司の表情が変わった。


「まるで...涙みたいだ」


その言葉に、ルカの胸がきゅっと締め付けられた。誰の涙だろう。なぜ、こんなに悲しい気持ちになるのだろう。


光の雨は次第に激しさを増していった。金色の粒子が村全体に降り注ぎ、家々や道、木々を優しく照らしていく。まるで、村全体が金色のヴェールに包まれたような、幻想的な光景だった。


■村人たちの反応


異変に気づいた村人たちが、次々と外に出てきた。


「まあ、きれいねぇ」


田中の奥さんが感嘆の声を上げた。でも、すぐに表情が曇る。


「でも、なんだか切ない気持ちになるわ」


「満月の夜の不思議な現象じゃのう」


八百屋の主人も空を見上げながら言った。その目には、理由の分からない涙が浮かんでいた。


皆、同じような感覚を共有していた。美しいけれど悲しい、説明のつかない感情。胸の奥がきりきりと痛み、でもその理由が分からない。


子供たちは違った反応を見せていた。


「ねえ、お母さん。白い人が見える」


「金色の雨の中に、誰かいるよ」


「優しい人だね。でも、泣いてる」


大人たちには見えないものが、子供たちには見えているらしい。でも、その姿はすぐに霧の中に消えてしまい、子供たちも何を見たのか説明できなかった。


佐藤ハナが杖をついて近づいてきた。八十を超える老婆の目にも、涙が光っていた。


「これは...何かの別れの印かもしれんのう」


老婆の言葉に、皆が振り返った。


「別れ?」


「ああ、誰かが遠くへ行ってしまったような...でも、誰じゃったかのう」


ハナも首を傾げる。記憶の中に、ぽっかりと穴が開いているような感覚。大切な誰かがいたはずなのに、その人の名前も顔も思い出せない。


「わしらは、何か大切なものを忘れとるんじゃないかのう」


ハナの言葉が、皆の心に重く響いた。

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