第90話 封印の完成
チヨが完全に消えた後、九つの欠片は一つの巨大な封印石となった。
それは、ゆっくりと井戸の中に沈んでいく。
井戸の底に達すると、強力な結界が張り巡らされた。
紫の霧は、まるで吸い込まれるように井戸に向かって流れ込む。
そして、浄化されて清浄な白い霧となって立ち上る。
村全体が、白い霧に優しく包まれた。
それは、もう脅威ではない。
守護の霧。
村を見守る、優しい霧。
銀色の狐神——新生したシロクロミカゲは、ルカと健司の前に立った。
その姿は、威厳に満ちている。
でも、同時に優しさも感じられる。
『巫女の犠牲により、封印は成った』
『村は救われた』
だが、二人にとって、それは何の慰めにもならなかった。
大切な人を失った悲しみは、あまりにも大きすぎた。
ルカは懐中時計を胸に抱きしめ、声を殺して泣いている。
健司も、拳を握りしめて俯いている。
『だが』
狐神は続けた。
『これで終わりではない』
二人が顔を上げる。
『新しい時代には、新しい守り方がある』
『いずれ、その道を示そう』
意味深な言葉。
でも、今の二人には、その意味を考える余裕はない。
『また...会えるの?』
ルカが涙声で尋ねる。
狐神は、少し考えてから答えた。
『それは、お前たち次第だ』
『愛は、形を変えて続く』
『いつか、違う形で』
曖昧な答え。
でも、希望はある。
そう言い残して、狐神は霧の中に消えていった。
■記憶の消失
やがて、不思議なことが起き始めた。
村人たちの記憶から、チヨの存在が消え始めたのだ。
まず、写真から。
家族写真、集合写真、スナップ写真。
すべてから、チヨの姿が消えていく。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
次に、記録から。
出生届、学校の名簿、診療記録。
チヨという人物の痕跡が、すべて消えていく。
そして、人々の心からも——
『あれ?』
『なんか、忘れてる気がする』
『大切な誰かがいたような...』
でも、思い出せない。
名前も、顔も、声も。
すべてが霧の中に消えていく。
でも——
ルカと健司だけは違った。
二人の心には、確かに何かが残っている。
完全ではない。
名前は出てこない。
顔もぼやけている。
でも、愛した人がいたことだけは忘れない。
大切な人がいて、その人は自分たちを守るために消えた。
それだけは、魂に刻まれている。
「姉ちゃん...」
ルカは夜空を見上げた。
満月が、優しく村を照らしている。
雲一つない、美しい夜空。
どこかで、見守ってくれている。
そんな気がした。
七時四十二分で止まった懐中時計を握りしめ、ルカは誓った。
「必ず、また会えるよね」
「それまで、私、頑張るから」
「姉ちゃんの分まで、生きるから」
健司も、静かに誓いを立てていた。
医師として、そして一人の男として。
愛した人の分まで、この村を守っていくと。
名前は思い出せなくても、その想いは消えない。
■愛する人が命をかけて守った、この世界で
夜が更けていき、村は完全に平和を取り戻した。
紫の霧は消え、清浄な白い霧が村を優しく包んでいる。
人々は安心して眠りにつき、子供たちは明日を楽しみにしている。
でも、井戸の前には、まだ二人の姿があった。
ルカと健司。
二人は寄り添うように座り、同じ喪失感を共有していた。
「一緒に、生きていこう」
健司が静かに言った。
「あの人の分まで」
ルカは頷いた。
涙はもう枯れていたが、決意は固い。
「うん」
「私たち、家族だもんね」
血の繋がりはない。
でも、同じ人を愛し、同じ人に愛された。
それが、二人を結ぶ絆。
懐中時計は、七時四十二分を指したまま。
でも、いつか——
いつか、また針が動き出す日が来るかもしれない。
その日を信じて、二人は生きていく。
愛する人が命をかけて守った、この世界で。




