第9話 市場
市場が見えてきた。色とりどりの野菜や山菜が並ぶ露店、焼き魚の香ばしい匂い、子供たちの笑い声——普段通りの朝の光景だ。しかし、よく見ると人々の表情には微かな不安が浮かんでいた。昨夜からの異変を、誰もが感じ取っているのだろう。
「チヨちゃん、ルカちゃん、おはよう!」
市場の入り口で、佐藤ハナが手を振っている。八十歳を過ぎた村の語り部は、編み笠を被り、杖をついて立っていた。深い皺の刻まれた顔に、穏やかな笑みを浮かべている。
「今朝の霧は特別じゃのう。昔を思い出すわい」
ハナは目を細め、何かを思い出すように杖で地面を軽く叩いた。
「私も、巫女の血を引いておるんじゃ」
ハナは遠い目をして語り始めた。「若い頃、私にも選択の時が来た。欠片を集めるか、普通の人生を選ぶか。私は後者を選んだ」
チヨは息を呑んだ。ハナもまた、巫女の血筋だったのか。
「恋をして、結婚して、子供を産んで。平凡だが幸せな人生。でも、時々思う。もし、あの時違う選択をしていたら」
ハナは、そっとチヨの髪に触れた。皺だらけの手が、震えているのが分かる。
「チヨちゃんは、強い子じゃ。私にはできなかったことを、あの子はやろうとしている」
そう言いながら、ハナは古い節回しで霧の唄を口ずさみ始めた。
「霧姫よ、村を守り給え……光の巫女に恵みを……写し世と現世の間で揺れる魂に安らぎを……闇の尾を持つ者と、光の尾を持つ者が一つに戻るとき、七時四十二分の針は永遠を指す……」
古い歌詞の中に、不思議な一節があった。チヨは心の中でその言葉を反芻する。七時四十二分——懐中時計が示す、あの時刻。夜の七時四十二分に、何かが起こる。