第89話 午後7時40分
井戸を覗き込むと、底で封印の欠片が激しく脈動していた。
時が来たのだ。
チヨは意識を集中させた。
もう実体がないため、純粋な意志の力で欠片を引き上げる。
青白い結晶が、ゆっくりと上昇してくる。
井戸の水面を破り、月光を受けて神秘的に輝く。
九つ目の欠片が、チヨの前に浮かんだ。
その瞬間、八つの欠片が激しく共鳴し始めた。
魔法陣の光が、眩しいほどに輝く。
『チヨ姉ちゃん!』
ルカが叫ぶ。
『行かないで!』
その声は聞こえない。
でも、振動として、想いとして伝わってくる。
健司も何か叫んでいる。
きっと、今まで言えなかったことを。
でも、もう遅い。
運命の歯車は、止められない。
■午後7時41分
チヨは九つの欠片を掲げた。
正確には、意識で欠片を制御した。
九つの欠片が、チヨを中心に円を描いて浮遊する。
そして——
激しい光が爆発した。
天に向かって光の柱が立ち上る。
それは雲を貫き、満月に向かって伸びていく。
村中に、鐘の音のような振動が響き渡った。
それは、世界の軋む音。
古い封印が解け、新しい封印が生まれる音。
チヨの体が、光の粒子となって崩れ始める。
もう曖昧だった輪郭が、完全に形を失っていく。
手が、光となって散る。
足が、粒子となって舞い上がる。
体が、少しずつこの世界から消えていく。
痛みはない。
ただ、優しい温もりに包まれているような感覚。
まるで、母の腕の中に帰っていくような——
■午後7時42分――封印
そして、運命の瞬間が訪れた。
九つの欠片が、激しく脈動しながら一つに融合し始める。
光、水、風、土、火、氷、命、心、そして封印。
すべてが混じり合い、新たな形を作り出す。
それは、巨大な結晶。
村を守る、永遠の封印石。
チヨの存在は、完全に光と化していた。
もう、個としての形はない。
でも、意識だけは残っている。
最後の瞬間、不思議な光景が見えた。
写し世の入り口。
そこには、歴代の巫女たちが待っていた。
祖母の千代。
優しい笑顔で手を差し伸べている。
母の美咲。
誇らしげに娘を見つめている。
そして、名前も知らない先達たち。
皆、同じ道を歩んだ者たち。
『よく頑張ったね』
美咲の声が聞こえた。
いや、声ではない。
魂に直接響く想い。
『こちらへ。新しい役目が待っているわ』
チヨは振り返った。
現世では、奇跡が起きていた。
シロミカゲとクロミカゲが、互いに近づいていく。
千年の分離を経て、ついに——
白と黒が混じり合い始めた。
光と影が融合し、銀色の美しい狐神が誕生する。
一つだった存在が、再び一つに。
その狐神が、チヨに向かって深く頭を下げた。
『感謝する』
『お前の犠牲により、我らは再び一つになれた』
そして、ルカと健司を見つめる。
『案ずるな』
『この者たちは、我らが守ろう』
最後に、チヨはルカを見た。
妹は泣き崩れている。
地面に膝をつき、声を上げて泣いている。
でも、その手には——
しっかりと懐中時計が握られていた。
七時四十二分。
その瞬間で、針は止まった。
健司も、ルカの隣に膝をついている。
二人で、消えゆくチヨを見上げている。
その瞳には、深い悲しみと、消えない愛が宿っていた。
『ルカ、愛してる』
『健司さん、愛してる』
『ずっと見守ってる』
その想いを込めて、チヨは光の中に消えていった。




