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第88話 井戸の前で

午後7時15分。


井戸の前に到着した。


古い石組みの井戸は、月光を受けて神秘的に輝いている。


その周りには、九つの石柱が円形に配置されている。


村の長老たちが、昨夜のうちに準備してくれたものだ。


古代の文字が刻まれ、かすかに脈動している。


ルカが、震える手で九つの欠片を取り出した。


『これを...置いていくんだよね』


健司が頷く。


『八つを石柱に、最後の一つを井戸から』


その手順は、母・美咲が残した記録に書かれていた。


チヨは八つの欠片を一つずつ確認した。


見えないが、存在感知でその力を感じ取る。


「光」の欠片――色彩を失い、暗闇でも見える力を得た。


「水」の欠片――声と聴覚を失い、水の記憶を読む力を得た。


「風」の欠片――嗅覚を失い、心の風を見る力を得た。


「土」の欠片――味覚と触覚を失い、大地の記憶を感じる力を得た。


「火」の欠片――視覚を失い、命の熱を感じる力を得た。


「氷」の欠片――体温感覚を失い、存在感知の力を得た。


「命」の欠片――声を完全に失い、生命を直接感じる力を得た。


「心」の欠片――記憶の一部を失い、他者の心を理解する力を得た。


一つ一つが、自分の犠牲の証。


でも、後悔はない。


すべては、この村を守るため。


愛する人たちを守るため。


■欠片の配置


ルカと健司が、チヨの指示に従って欠片を配置していく。


もちろん、チヨの指示は伝わらない。


でも、二人は何かを感じ取ったのか、正しい位置に欠片を置いていく。


光の欠片を北に。


水の欠片を東に。


風の欠片を南に。


土の欠片を西に。


そして、その間に火、氷、命、心の欠片を配置する。


八つの欠片が配置されると、それぞれが共鳴し始めた。


石柱から石柱へと光が走り、八角形の魔法陣が浮かび上がる。


『きれい...』


ルカが呟く。


でも、その美しさは、別れの前触れ。


魔法陣の光は、次第に強くなっていく。


そして、井戸の底から青白い光が立ち上り始めた。


最後の欠片が、呼応しているのだ。


■クロミカゲの出現


午後7時30分。


空間が歪み、黒い狐が現れた。


クロミカゲ。


シロミカゲと対をなす、もう一つの存在。


『最後の機会だ』


クロミカゲの思念が伝わってくる。


『今ならまだ、引き返せる』


その誘惑は、甘美だった。


引き返せば、この世界に留まれる。


ルカと健司と、もう少し一緒にいられる。


でも——


チヨは首を振った。


『愚かな。お前が消えれば、あの二人は一生苦しむ』


『それでも』


チヨは心の中で答えた。


『二人が生きていれば、それでいい』


『村が守られれば、それでいい』


クロミカゲは、しばらくチヨを見つめていた。


その瞳には、複雑な感情が宿っている。


軽蔑?いや、違う。


それは、理解と共感だった。


『...そうか。ならば、見届けよう』


クロミカゲも、少し離れた場所に座った。


シロミカゲとクロミカゲ。


光と影の双子の狐神が、この歴史的瞬間に立ち会っている。


二つの存在が、同じ場所にいる。


それは、千年ぶりの出来事だった。


■最後の会話


午後7時35分。


時間が迫っていた。


チヨは振り返り、ルカと健司を見た。


見えないが、二人の生命の熱から、その表情が分かる。


ルカは泣いている。


涙が頬を伝い、月光に照らされて光っている。


でも、その目には覚悟がある。


姉のために、強くあろうとしている。


健司も、感情を抑えきれずにいる。


拳を握りしめ、唇を噛んでいる。


医師として冷静であろうとしても、もう限界だった。


『チヨ』


健司が地面に大きく書いた。


手が震えているのが、文字の乱れから分かる。


『愛してる』


シンプルな言葉。


でも、そこに込められた想いの深さは、計り知れない。


『ずっと前から』


『子供の頃から』


『今も、これからも』


その告白に、チヨの魂が震えた。


返事をしたい。


私も愛してる、と。


でも、もう伝える術がない。


『私も』


今度はルカが地面に書いた。


『ずっと、ずっと大好き』


『世界で一番大切な姉ちゃん』


『忘れない、絶対に』


その言葉が、胸を締め付ける。


でも、忘れてしまうのだ。


封印が完成すれば、自分の存在は記憶から消える。


それでも、ルカは続けた。


『たとえ忘れても』


『心のどこかで、覚えてる』


『絶対に』


その決意が、温かい光となって伝わってくる。


健司も頷いた。


『俺も同じだ』


『名前を忘れても、顔を忘れても』


『君を愛したことは、忘れない』


二人の想いを受け止めて、チヨは全身全霊で応えた。


声は出ない。


姿も見えない。


触れることもできない。


でも、想いだけは送る。


愛してる。


二人とも、心から愛してる。


ありがとう。


今まで、本当にありがとう。


その想いが伝わったのか、二人の生命の熱が優しく揺らいだ。

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