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第87話 井戸への道

あなたが、わたしの名前を忘れてもいい。


でも、あなたの中に残った"何か"が、わたしだったら――それで、いいの。


名前は失われても、想いは、まだあなたの呼吸の中にある。


わたしは、それを信じて写した。最後の一枚まで。


七時四十二分の針が止まるとき

巫女は永遠を選び

愛する者は記憶を失う

されど魂の絆は

写し世と現世を超えて続く

――『霧姫伝説・最終章』より


■井戸への道


1994年5月25日、午後7時。


夕暮れの村は、不思議な静寂に包まれていた。紫の霧があまりに濃いため、村人たちは皆、家の中に避難している。まるで、これから起こることを本能的に察知しているかのように。


三人は、古い石畳の道をゆっくりと歩いた。チヨの足は地面を踏んでいない。ただ、ルカと健司の後を、白い影のように漂っている。


満月は既に東の空に昇り、銀色の光を地上に注いでいる。その光が紫の霧と混じり合い、幻想的で不気味な光景を作り出していた。


歩きながら、ルカが小さく呟いた。


『チヨ姉ちゃん、一緒だよね』


その問いかけに、チヨは精一杯の存在感を発した。


ここにいる。最後まで一緒にいる。


健司も、チヨがいるはずの空間に向かって語りかける。


『もうすぐだね』


その声には、深い悲しみと諦めが混じっていた。


でも、同時に覚悟も感じられる。


最後まで、チヨと共にいるという覚悟。


石畳の道は、月光に照らされて青白く光っている。


一歩一歩が、最後への道のり。


でも、三人は急がなかった。


この時間を、少しでも長く共有したかったから。


■影向稲荷の前で


途中、影向稲荷の前を通った。


あの日、シロミカゲと出会った場所。


運命が動き始めた場所。


鳥居の前で、ルカが立ち止まった。


『ちょっと、お参りしていこう』


健司も頷く。


三人は鳥居をくぐり、境内に入った。


月光に照らされた社殿は、神秘的な雰囲気を漂わせている。


そして——


鳥居の向こうから、白い狐が姿を現した。


九つの尾を持つ、神聖な存在。


シロミカゲ。


『巫女よ』


シロミカゲの思念が、チヨに直接伝わってくる。


『時は来た。覚悟はよいか』


チヨは頷いた。


もう、迷いはない。


『よかろう。では、我も立ち会おう』


シロミカゲは三人の後をついてきた。


その姿は、ルカと健司には見えないようだが、神聖な気配は感じているらしい。


ルカが不安そうに呟く。


『なんか、誰かいる気がする』


『大丈夫』


健司が優しく言う。


『きっと、チヨを守ってくれる存在だ』


その通りだった。


シロミカゲは、最後の儀式に立ち会うつもりなのだ。


千年の時を経て、再び大きな変化が起ころうとしている。


その瞬間に、立ち会うために。

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