第85話 思い出の場所巡り
準備をして、三人で家を出た。
最初に向かったのは、古い井戸だった。
『ここで、よく水を汲んだね』
ルカが井戸を覗き込む。
石組みの古い井戸。村の中央にあって、昔から大切にされてきた。
水面には、健司とルカの姿が映っている。自分の姿は、もう映らない。
でも、ルカは微笑んだ。
『ほら、チヨ姉ちゃんもちゃんと映ってる』
嘘だと分かる。でも、その優しさが嬉しい。
ルカは、井戸の縁に手を置いた。
『ここで、チヨ姉ちゃんに髪を結んでもらったこと、覚えてる』
『夏祭りの前の日』
『浴衣に合うようにって、可愛く結んでくれた』
その光景が、おぼろげに浮かぶ。
小さなルカの髪を、丁寧に結ぶ自分。
「可愛くなったね」と褒めると、ルカが嬉しそうに笑った。
本当の記憶かどうかは分からない。
でも、きっとあった出来事。
健司も思い出を語る。
『俺は、ここでチヨに告白しようとしたことがある』
『高校の時』
『でも、言えなかった』
苦笑いを浮かべる健司。
『チヨが先に、"井戸の水、冷たいね"って言って』
『タイミングを逃した』
そんなことがあったのか。
もう思い出せないけれど、申し訳ない気持ちになる。
次は、川原へ。
小川のせせらぎが、振動として伝わってくる。
『夏は、ここで泳いだ』
健司が懐かしそうに言う。
『チヨが一番泳ぎが上手かった』
『いつも悔しがってた』
ルカも頷く。
『私、最初は怖くて川に入れなかった』
『でも、チヨ姉ちゃんが手を引いてくれて』
『"大丈夫、お姉ちゃんがついてるから"って』
その言葉に、何か大切なものを感じる。
守る、ということ。
それが、自分の本質だったのかもしれない。
川原には、子供たちが遊んでいた。
その中の一人が、突然立ち止まった。
『ママ、誰かいる』
五歳くらいの女の子が、チヨのいる方向を指差す。
『誰もいないわよ』
母親が答える。
『でも、いるもん。優しい人がいる』
子供の純粋な感覚は、大人より鋭い。
健司が女の子に近づいた。
『そうだね。優しい人がいるね』
『お兄ちゃんにも見える?』
『うん。大切な人が、ここにいる』
女の子は嬉しそうに笑った。
『やっぱり!』
そして、チヨの方を向いて手を振った。
『ばいばい、優しい人』
その無邪気な仕草に、心が温かくなる。
■市場での最後の買い物
市場にも寄った。
いつもの賑わい。でも、どこか違う。
『おや、佐藤先生にルカちゃん』
八百屋の山田さんが声をかける。
『今日は二人でお買い物?』
その言葉に、ルカが首を振る。
『三人です』
『三人?』
山田さんは不思議そうに辺りを見回す。
もちろん、透明な自分は見えない。
でも、ルカは諦めない。
『チヨ姉ちゃんも一緒なんです』
『チヨ...ちゃん?』
山田さんの表情が、一瞬曇った。
何かを思い出そうとしているような、でも思い出せないような。
『ああ、そうか...三人か』
結局、山田さんは曖昧に頷いた。
『仲良しでいいねえ』
ルカは、いつものように買い物を始めた。
『人参と、大根と...』
『あ、チヨ姉ちゃんの好きなトマトも』
自分の好物を、ちゃんと覚えていてくれる。
それが嬉しくて、でも切ない。
『写真も撮らなきゃ』
ルカが魂写機を取り出した。
市場の風景、人々の笑顔、山積みの野菜。
シャッターを切る音が、振動として伝わってくる。
『チヨ姉ちゃんが撮ってたみたいに』
ルカの撮り方は、確かに自分に似ている。
同じアングル、同じタイミング、同じ優しさ。
技術は受け継がれている。
そして、心も。
花屋の前で、鈴木さんが白い花を持って立っていた。
『あ、ちょうど良かった』
鈴木さんが二人に近づく。
『これ、誰かに渡すために用意したんだけど...』
『誰に渡すか、思い出せなくて』
白い百合の花束。
清楚で、美しく、少し寂しげな花。
『でも、佐藤先生たちに会えてよかった』
『これ、持っていってください』
ルカが花束を受け取る。
『ありがとうございます』
『きっと、チヨ姉ちゃんへの花ですね』
鈴木さんは、また不思議そうな顔をした。
でも、何か納得したような表情も見せた。
『そうかもしれない...』
『大切に使ってくださいね』
■神社での祈り
影向稲荷神社にも立ち寄った。
古い石段を登りながら、ルカが呟く。
『ここ、チヨ姉ちゃんとよく来た』
『お祭りの時も、普通の日も』
神社の境内は、静謐な空気に包まれていた。
大きな杉の木が、何百年もの時を刻んでいる。
『あの木の下で、お弁当食べたよね』
ルカが懐かしそうに木を見上げる。
健司も頷く。
『三人で、よくピクニックした』
『チヨの作るおにぎりが、一番美味しかった』
おにぎり。
その言葉に、かすかな記憶が蘇る。
海苔を巻いて、具を入れて、愛情を込めて握る。
「美味しい」と言ってもらえることが、嬉しかった。
社殿の前で、三人は手を合わせた。
何を祈るべきか。
もう言葉も出ないし、思考も曖昧だ。
でも、一つだけ確かな願いがある。
この二人が、幸せでありますように。
ただ、それだけ。
ルカが目を開けて、呟いた。
『神様、チヨ姉ちゃんを守ってください』
『写し世に行っても、寂しくないように』
その祈りに、胸が熱くなる。
健司も静かに祈っている。
彼の生命の熱から、その内容が伝わってくる。
再会を願っている。
いつか、どこかで、もう一度会えることを。
それは、叶わない願いかもしれない。
でも、祈ることは自由だ。




