第84話 透明な体での朝食作り
君が名も知らぬ誰かを想うとき、 君もまた―― 誰かの記憶の灯となる。継がれた光は、 決して"消えた者"のものではない。写された祈りは、 いつか"見知らぬ誰か"の未来を照らす。
日常とは奇跡の連続
当たり前など一つもなく
朝日も夕餉も愛の証
最後の一日も変わらずに
ただ共にあることの幸せ
——『霧姫伝説・日常の章』より
■透明な体での朝食作り
1994年5月25日、午前5時。
最後の朝が来た。
意識は朧げで、自分が誰なのかもはっきりしない。でも、今日が特別な日だということは、魂が覚えていた。
体を起こそうとして、奇妙な感覚に襲われる。
手が、布団をすり抜けた。
いや、正確にはかすかに触れているが、ほとんど力が入らない。まるで、風が布を撫でるような、儚い接触。
存在感知で自分の体を確認する。
輪郭は、もうほとんど残っていない。薄い霧が人の形をしているような、曖昧な存在。
それでも、立ち上がる。
いや、浮き上がると言った方が正しいかもしれない。重力の影響も、ほとんど感じない。
階段を降りる。足は床を踏んでいない。ただ、降りるという意思だけで、体が移動していく。
壁をすり抜けそうになり、慌てて軌道を修正する。物質との相互作用が、極めて希薄になっている。
台所に入る。
ここで毎朝、朝食を作っていた。その記憶の断片が、かすかに残っている。
大切な人たちのために、愛情を込めて。
今朝も、作りたい。
最後の朝食を。
フライパンを持とうとする。手がすり抜ける。
卵を割ろうとする。触れることさえできない。
包丁も、まな板も、鍋も、何も扱えない。
一つ一つ試してみるが、すべてが幽霊のようにすり抜けていく。
透明な体では、もう料理はできない。
「ごめんね...」
声に出そうとするが、もちろん出ない。
心の中で、誰かに謝る。誰に謝っているのかは、もう思い出せない。
でも、朝食を作ってあげたかった人がいる。それだけは確かだ。
悔しさと悲しさが、胸に広がる。
最後の朝くらい、愛する人たちに朝食を作りたかった。
温かい味噌汁、ふわふわの卵焼き、炊きたてのご飯。
普通の、でも愛情のこもった朝食。
それさえ、もう作ることができない。
ただ、台所に佇むことしかできない。
幽霊のように、そこにいるだけ。
でも、諦めきれずに、もう一度挑戦する。
スプーンを持とうとする。指をすり抜ける。
水道の蛇口をひねろうとする。手が空を切る。
冷蔵庫を開けようとする。扉に触れることすらできない。
何度試しても、結果は同じ。
もう、この世界の物に触れることはできない。
■ルカの朝の習慣
しばらくして、足音が聞こえた——いや、振動を感じた。
少女——ルカ——が降りてきた。
パジャマ姿で、髪はまだ寝癖がついている。でも、その生命の熱は、朝日のように輝いている。
『あれ?』
ルカが首を傾げる。
『なんだか、誰かがいるような...』
巫女の血が覚醒したルカには、かすかに存在が感じられるらしい。
ルカの金色の瞳が、わずかに光る。それは、巫女の力の現れ。まだ完全ではないが、確実に覚醒し始めている。
瞳の奥に、不思議な輝きがある。それは、写し世を見通す力の萌芽。
『チヨ姉ちゃん?』
ルカが虚空を見つめる。正確な位置ではないが、近い。
その瞬間、ルカの瞳がさらに強く光った。一瞬だけ、姉の輪郭が見えたのかもしれない。
頷きたいが、それも相手に伝わるか分からない。
必死に存在を主張する。ここにいる、と。
ルカは台所を見回し、気づいた。
フライパンが微妙に動いている。卵のパックが少しずれている。
『朝ごはん、作ろうとしてたの?』
また頷く——つもり。全身で「そうだ」と伝えようとする。
ルカの表情が優しくなった。でも、その奥に深い悲しみも見える。
涙が一粒、頬を伝った。
『チヨ姉ちゃん...もう、触れられないんだね』
その理解が、胸を締め付ける。
『でも、大丈夫』
ルカは涙を拭いて、笑顔を作った。
『一緒に作ろう』
そう言って、ルカはエプロンをつけ始めた。
いつものエプロン。チヨが誕生日にプレゼントしたもの——そんな記憶の断片が、かすかに浮かぶ。
『チヨ姉ちゃんは、そこで見ててくれればいい』
ルカは手際よく朝食の準備を始めた。
でも、その動きは、どこか不思議だった。
まるで、誰かに教わっているかのように、時々空中で手を止める。
『卵焼き、甘めでいい?』
虚空に向かって問いかける。
返事はできない。でも、ルカは何かを感じ取ったのか、にっこりと笑った。
『うん、分かった。いつものやつね』
卵を割り、砂糖を加え、丁寧に混ぜる。
その手つきは、チヨが教えたものと全く同じ。
『お味噌汁の具は、豆腐とネギ?』
また問いかける。
そして、まるで返事が聞こえたかのように頷く。
『あと、わかめも入れるんだよね』
姉妹の絆は、言葉を超えて存在する。
心が通じ合っているのか、それとも長年の習慣が導いているのか。
きっと、その両方なのだろう。
料理をしながら、ルカは無意識のうちに「二人分」を作っていた。
茶碗を二つ、箸を二膳、味噌汁も二杯。
卵焼きも、いつもの倍の量。
そして、作り終えてから気づく。
『あ...また二人分作っちゃった』
ルカの目に涙が浮かぶ。
でも、すぐに首を振った。
『ううん、これでいいの』
『だって、チヨ姉ちゃんも一緒だもん』
その言葉に、胸が熱くなる。
『はい、できた!』
ルカが満足そうに朝食を並べる。
三人分。
透明な自分の分も、ちゃんと用意されている。
白いご飯、甘い卵焼き、具だくさんの味噌汁。
食べられないことは、ルカも分かっているはず。
でも、家族だから。
一緒に食卓を囲むことに意味がある。
『いただきます』
ルカが手を合わせる。
そして、チヨの席の方を見て、優しく微笑んだ。
『チヨ姉ちゃんも、いただきます、でしょ?』
その優しさに、涙が出そうになる。
もう涙も出ないけれど。
■健司との朝の時間
健司が来て、三人で朝食を囲んだ。
健司の生命の熱は、今日は特に複雑だ。深い悲しみ、強い決意、そして抑えきれない愛情が渦を巻いている。
『おはよう、ルカちゃん』
健司が挨拶する。そして、チヨがいるはずの場所に向かって。
『おはよう、チヨ』
ちゃんと、自分の存在を感じ取ってくれている。
それが嬉しくて、精一杯の存在感を発する。
『今日は、いい天気だね』
ルカが窓の外を見ながら言う。
確かに、存在感知でも爽やかな朝の空気が感じられる。
五月の終わり、初夏の訪れを告げる清々しい朝。
『今夜は満月だね』
健司の言葉に、空気が少し重くなる。
今夜、すべてが終わる。
皆、それを理解している。
でも、あえて普通の朝を演じている。
最後の日常を、大切に過ごすために。
『今日は土曜日かあ』
ルカが呟く。
『学校、お休みでよかった』
そうか、今日は週末なのか。
普通なら、ゆっくり過ごす休日。
でも、今日は特別な日。
『何かしたいことある?』
健司が優しく尋ねる。
『うん!』
ルカが顔を上げた。
『村の、いろんな場所に行きたい』
『どこに?』
『チヨ姉ちゃんと行った場所、全部』
その言葉に、健司の熱が優しく揺れた。
『いいね。俺も一緒に行く』
『本当?お仕事は?』
『今日は休診にした』
健司の決意が伝わってくる。
最後の一日を、一緒に過ごすつもりなのだ。
朝食を食べながら、二人は計画を立て始めた。
『まず、井戸に行こう』
『それから、川原』
『市場も』
『神社も忘れちゃダメ』
『写真館の屋上も』
一つ一つの場所に、思い出がある。
もう具体的には思い出せないけれど、大切な場所だということは分かる。
健司が、ふと手を止めた。
『チヨ』
虚空に向かって語りかける。
『聞こえてる?』
頷きたい。でも、伝わらない。
『きっと聞こえてるよね』
健司は優しく微笑んだ。
『今日一日、思い出の場所を巡ろう』
『君との思い出を、もう一度辿ろう』
その提案が、とても嬉しかった。
最後の一日を、思い出と共に過ごす。
それは、美しい別れの形。




