第81話 ルカの優しさ
少女——妹だということを教えられた——が、二人の様子を見守っている。
彼女の生命の熱からは、深い理解と悲しみが伝わってくる。
『健司先生』
少女が口を開いた——ような熱の動きがある。
『チヨ姉ちゃんも、きっと同じ気持ちだと思う』
姉。そう、この少女は妹なのだ。
大切な、守るべき存在。
それだけは、はっきりと分かる。
『昨日、一緒に昔のアルバムを見たの。健司先生の写真がいっぱいあった』
アルバム?写真?
断片的なイメージが浮かぶ。カメラを構える自分。ファインダー越しに見る、優しい笑顔。
でも、それが本当の記憶なのか、想像なのか分からない。
『チヨ姉ちゃん、いつも健司先生の写真ばっかり撮ってた』
少女の言葉に、青年が驚いたような熱を発する。
『本当?』
『うん。"また健司さん?"って聞いたら、"だって、素敵なんだもん"って』
素敵。
その言葉に、かすかな共感を覚える。
確かに、この青年は素敵だ。優しくて、真っ直ぐで、一途で。
もしかしたら、自分は本当に——
でも、記憶は戻らない。
ただ、胸の奥で何かが疼くような感覚だけがある。
■内面の混沌
意識は曖昧だが、感情は鮮明だ。
いや、感情というより、もっと原始的な何か。
愛している。
名前も顔も、もう思い出せない。でも、この想いだけは確か。
誰を愛しているのか。なぜ愛しているのか。どんな愛なのか。
すべてが分からない。
でも、愛していることだけは、疑いようのない事実。
それは、理屈を超えた、魂の叫びのようなもの。
でも、それを伝える術がない。
声は出ない。文字も書けない。触れることもできない。
存在自体が、もう他者には認識されない。
究極の孤独。
いや、孤独という概念さえ、もう曖昧だ。
自分と他者の境界が溶けて、世界と一体化していくような感覚。
それは恐ろしくもあり、安らかでもある。
もうすぐ、完全に消える。
その事実は理解している。でも、恐れはない。
なぜなら、愛する人たちがそばにいるから。
たとえ見えなくても、触れなくても、言葉を交わせなくても。
魂は繋がっている。
それを信じることができる。
いや、信じるという意識的な行為ですらない。
ただ、そうであることを知っている。
太陽が東から昇ることを知っているように、自然に。
■村を歩く
午前中、三人で村を歩いた。
最後の巡礼のように。
市場、診療所、学校、神社。
どこも懐かしい気がする。でも、具体的な記憶はない。
ただ、この場所を愛していたことだけは分かる。
ここで生まれ、育ち、生きてきた。
その事実が、体の奥底に刻まれている。
村人たちは、青年と少女にだけ挨拶をする。
自分は、もう誰にも見えない。
でも、時折、誰かが立ち止まる。
「なんだか、懐かしい気がする」
「誰かがいたような...」
「大切な人を忘れているような...」
人々の無意識は、まだ覚えている。
名前も顔も忘れても、存在の痕跡は残っている。
それが、少しだけ嬉しかった。
完全に消えるわけではない。
人々の心の片隅に、かすかな記憶として残り続ける。
それで十分だ。




