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第80話 曖昧な意識での目覚め

わたしは、あなたの名前を思い出せない。


写真には映っているのに、胸の奥では泣きそうなのに、なぜか声が届かない。


でも、わかるの。


この笑顔を写した人を、わたしは――きっと、大好きだったって。


薄れゆく姿の中にも真実の愛は色褪せず

言葉なき想いは風となり

姿なき祈りは光となる永遠の絆ここにあり

——『霧姫伝説・真心の章』より


■曖昧な意識での目覚め


1994年5月25日、午前6時。


意識が、ゆっくりと浮上してくる。


私は...誰?


ここは...どこ?


記憶の断片が、壊れた鏡のように散らばっている。名前、顔、声、すべてが曖昧。でも、一つだけはっきりしていること。


守らなければならない人がいる。


それが誰なのか、なぜ守らなければならないのか、もう思い出せない。でも、その使命感だけは、魂の奥底に刻まれているように残っている。


体を起こそうとして、奇妙な感覚に襲われる。自分の体の境界が分からない。まるで、霧が人の形をしているような。


いや、もっと曖昧だ。


存在と非存在の境界線上で、かろうじて「私」という意識だけが漂っている。


存在感知で周囲を探る。見慣れた部屋——いや、見慣れているという感覚だけがある。実際にどんな場所なのかは、もう思い出せない。


壁、床、天井。家具の配置。すべてが「知っている」のに「知らない」。


この矛盾した感覚は何だろう。


近くに、二つの温かい生命の熱を感じる。


一つは若々しく輝く熱。もう一つは深く穏やかな熱。


誰だろう。でも、大切な人たちだということは分かる。この人たちを守るために、自分はここにいる。


それ以外のことは、もう何も確かではない。


立ち上がる——いや、浮き上がるという方が正しいかもしれない。重力の影響も曖昧になっている。


自分という存在が、世界から剥がれかけている感覚。


でも、まだここにいる。


まだ、使命を果たしていない。


■健司の最後の告白


階下に降りると、二人がすでに起きていた。


若い方の生命の熱——少女だということは分かる——が、不安と悲しみに揺れている。


もう一人——青年——は、深い決意と愛情の熱を放っている。


『チヨ』


地面に大きく書かれた文字。その振動で、名前が伝わってくる。


チヨ。それが自分の名前らしい。でも、実感が湧かない。ただの音の連なり、記号のように感じられる。


青年が近づいてくる。その生命の熱が、今まで感じたことのないほど強く、純粋に輝いている。


何か大切なことを伝えようとしている。それは分かる。


『もう時間がない。だから、今言わせて』


彼は膝をついた。まるで、プロポーズをするかのように。


その姿勢から、これが人生で最も重要な瞬間だということが伝わってくる。


『愛してる』


シンプルな言葉。でも、その想いの深さは、熱となって痛いほど伝わってくる。


愛。


その概念は理解できる。でも、自分がかつてどんな愛を知っていたのか、もう思い出せない。


『初めて会った時から、ずっと』


彼は続ける。地面に文字を書きながら、時折顔を上げて、自分がいるはずの空間を見つめる。


もう姿は見えないのだろう。でも、存在は感じているらしい。


青年の記憶が、熱となって流れ込んでくる。


桜の下で出会った日。川で遊んだ夏。一緒に勉強した秋。雪だるまを作った冬。


断片的な映像。でも、それが自分の記憶なのか、彼の記憶なのか、もう区別がつかない。


ただ、そこには深い幸せがあったことだけは分かる。


『君は覚えていないかもしれない。でも、俺は全部覚えてる』


青年の声——聞こえないが、その熱から言葉が伝わってくる。


『医者になったのも、君のためだった』


医者。そうか、この人は医者なのか。


生命の熱を見ると、確かに「癒し」の質を持っている。人を助けることに人生を捧げた、純粋な魂。


『君みたいに、人を助けたかった。君の側にいたかった』


自分は、人を助ける人だったのだろうか。


思い出せない。でも、そうだったような気もする。


青年は続ける。彼の告白は、まるで遺言のようだ。


『都会の病院から誘いがあった。断った』


『なぜか分かる?君がいたから』


『君のいない場所で、どんなに成功しても意味がない』


その一途さが、胸を打つ。


自分は、それほどまでに愛されていたのか。


なぜだろう。涙が出そうになる。


でも、もう涙も出ない。感情さえも、曖昧になっている。


『返事はいらない』


青年は優しく言った。


『ただ、知っていてほしい。君がどんな姿になっても、俺の愛は変わらない』


どんな姿になっても。


今の自分は、もはや人間とは呼べない存在。透明で、曖昧で、消えかけている。


それでも愛してくれるという。


なぜだろう。その言葉が、深く心に響く。


もしかしたら、自分もこの人を——


でも、それ以上は思い出せない。

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