第79話 満月への準備
午後になると、空気が変わり始めた。
紫の霧が、少しずつ濃くなっている。
満月が近づいている証拠。
そして、封印の時も。
写真館で、三人は最後の準備を始めた。
といっても、特別なことはない。
ただ、心の準備をするだけ。
『怖い?』
健司がルカに尋ねる。
『...うん』
ルカは正直に答えた。
『でも、大丈夫』
その強さは、どこから来るのだろう。
十五歳の少女とは思えない、芯の強さ。
きっと、姉譲りなのだろう。
自分も、そんなに強かったのだろうか。
『チヨ姉ちゃん』
ルカが虚空を見つめる。
今度は、正確に自分のいる方向を向いている。巫女の血が、完全に覚醒し始めている。
『ありがとう』
突然の言葉。
『今まで、守ってくれてありがとう』
ルカの目に涙が浮かぶ。
でも、それは悲しみの涙ではない。
感謝と、決意の涙。
『今度は、私が守る番』
守る?
何を守るというのだろう。
『チヨ姉ちゃんの思い出』
ルカは続けた。
『写真も、この家も、全部守る』
『そして、いつか——』
ルカは言葉を切った。
いつか、何なのか。
でも、その決意の強さは伝わってきた。
何か、大きな決意をしている。
それが何なのかは分からないが、ルカなら正しい道を選ぶだろう。
健司も立ち上がった。
『俺も、守る』
彼の視線は、正確に自分を捉えていた。
医師の直感か、愛の力か。
『君との約束を』
約束?
記憶にはない。でも、何か大切な約束があったのだろう。
『必ず、また会える日が来る』
健司の確信に満ちた言葉。
それは、医学的にはあり得ない。
でも、愛は時に奇跡を起こす。
もしかしたら——
いや、今は考えまい。
まずは、使命を果たすこと。
■心の欠片の在処
夕方、ルカの力を借りて、心の欠片の場所が分かった。
それは、村の地下深くにあるという。
写真館の地下。そこに、古い祭壇があるらしい。
『私、前に夢で見た』
ルカが説明する。
『地下への階段。そこに、紫色の光』
三人で、写真館の中を探し始めた。
といっても、自分はほとんど何もできない。ただ、存在感知で空間を探るだけ。
やがて、健司が隠し扉を見つけた。
『ここだ』
物置の奥、古い棚の後ろに、地下への階段があった。
埃をかぶり、長い間使われていなかったことが分かる。
三人で階段を降りていく。
自分は、体が階段をすり抜けないよう、慎重に降りた。存在が希薄になると、物理法則も曖昧になる。
地下は、思った以上に広かった。
そして、中央に古い祭壇がある。
そこに、紫色に輝く結晶が置かれていた。
心の欠片。
しかし、その周りには結界が張られていた。
『これは...』
健司が古い碑文を読む。
『「心を失う者、新たな心を得る」』
意味深な言葉。
心を失って、新たな心を得る。それは、どういうことなのか。
自分の心が、どう変わるのか。
愛も、優しさも、すべて失うのだろうか。
でも、恐れはない。
たとえ心を失っても、守るべきものは守る。
それが、巫女の使命。
■最後の夕食
欠片を取る前に、三人で最後の夕食を共にした。
健司が作ってくれた料理。医師らしく、栄養バランスが考えられた優しい味付け——想像だが。
もちろん、自分は食べられない。
でも、そこに座っている——浮いている——だけで、幸せだった。
健司とルカが、普段より多く話している。
思い出話、将来の夢、他愛ない日常の話。
まるで、この時間を永遠に続けたいかのように。
でも、時間は止まらない。
窓の外では、月が昇り始めている。
満月まで、あと数時間。
『チヨ姉ちゃん』
ルカが真剣な表情で語りかける。
『私、決めたことがある』
その生命の熱が、強い決意に燃えている。
『チヨ姉ちゃんがいなくなっても、写真は撮り続ける』
『魂写機も、大切に使う』
『そして、いつか——』
また、その言葉。
いつか、何をするつもりなのか。
『いつか、チヨ姉ちゃんを見つける』
見つける?
『写真で。チヨ姉ちゃんが残した方法で』
ルカの金色の瞳が、強く輝いた。
それは、巫女の瞳。
覚醒した力が、何かを見通している。
『必ず、また会える。そう信じてる』
健司も頷いた。
『俺も信じてる。医学では説明できないけど、愛は奇跡を起こす』
二人の信念が、温かい光となって感じられる。
もしかしたら、本当に——
でも、今はまだ、そんな希望を持ってはいけない。
まずは、封印を完成させること。
それが、最優先。
■最後の時間
夕食後、三人で居間で過ごした。
ルカがアルバムを持ってきて、写真を一枚一枚説明してくれる。
健司が、医学書を読みながら、時々顔を上げて自分を見る——見えないはずだが。
平凡な、でも愛おしい時間。
これが、最後の家族の時間。
やがて、時計が七時を回った。
七時四十二分まで、あと少し。
『そろそろ...』
健司が立ち上がる。
その生命の熱が、悲しみと決意に揺れている。
ルカも立ち上がった。
『行こう』
三人で、地下の祭壇へ向かう。
階段を降りながら、様々な想いが胸を過る。
もう少し、一緒にいたかった。
もっと、たくさんの思い出を作りたかった。
でも、これが運命。
受け入れるしかない。
祭壇の前に立つ。
紫色の結晶が、静かに脈動している。
心の欠片。
これを取れば、八つ目。
そして明日、最後の封印の欠片を使って、すべてを終わらせる。
『準備は...いい?』
健司が尋ねる。
その声は——聞こえないが、感情は伝わる——震えていた。
でも、覚悟もある。
ルカも同じだ。
怖いけど、前を向いている。
自分はどうだろう。
怖い?
いや、違う。
ただ、寂しい。
もう少し、一緒にいたかった。
でも、これが運命なら、受け入れよう。
愛する人たちを守るために。
■心の欠片
祭壇の前に立つ。
結界は、巫女の血を引く者だけが通れるようになっていた。
ゆっくりと結界の中に入っていく。
健司とルカは、結界の外で見守っている。
二人の不安と愛情が、温かい光となって感じられる。
紫色の結晶が、静かに脈動している。
心の欠片。
これを取れば、おそらく自分の心——感情や意識——の大部分を失うだろう。
でも、核心的な想いだけは残るはず。
守りたい、という想い。
愛している、という想い。
それさえあれば、十分だ。
手を伸ばす前に、もう一度振り返った。
健司とルカ。
名前も、関係も、思い出も、ほとんど失ってしまった。
でも、この二人が大切だということだけは、魂に刻まれている。
『ありがとう』
声にならない感謝を送る。
『愛してる』
伝わらない想いを込める。
そして、心の欠片に手を触れた。
瞬間——
世界が、紫色に染まった。
そして、心が、静かに溶けていく感覚。
感情が薄れ、意識が曖昧になり、自我が霧散していく。
でも、最後まで残ったもの。
それは、愛。
名前も顔も分からない、でも確かに愛している人たちへの想い。
それだけを抱いて、新しい存在へと変化していった。
もはや、人間とも言えない何か。
でも、愛することを止めない、純粋な守護者。
それが、八つの欠片を得た巫女の姿だった。
明日、最後の欠片で、すべてが終わる。
でも、愛は終わらない。
形を変えて、永遠に続いていく。
それを信じて、最後の夜を迎える。




