第75話 声と聴覚の喪失
結晶に触れた瞬間——
世界から、音が完全に消えた。
もう、何も聞こえない。水の音も、風の音も、自分の呼吸音さえも。
そして同時に——
声も失った。
もう二度と、言葉を発することはできない。歌うことも、笑うことも、泣き声を上げることも。
完全な静寂。
それは、想像以上に恐ろしかった。
音のない世界は、まるで真空の中にいるような感覚。すべてが遠く、隔離されているように感じる。
『チヨ!』
健司が必死に呼びかけている——ような振動を感じる。でも、もう返事はできない。
声を出そうとしても、何も出ない。喉は動くが、音は生まれない。
頷くことで、無事を伝える。
『声、出ない?』
その問いにも、頷くだけ。
健司とルカの生命の熱が、深い悲しみに沈んだ。特にルカは、激しく震えている。もしかしたら、泣いているのかもしれない。
でも——
新しい能力も、生まれていた。
■生命感知の深化
声と聴覚を失った代わりに、チヨの生命感知能力は飛躍的に向上した。
今まで以上に、他者の生命力を深く、鮮明に感じることができる。
健司の生命の熱を見る。
二十五年の人生が、層をなして見える。幼少期の純粋さ、少年期の探求心、青年期の情熱、そして今の深い愛情。
医師としての使命感が、彼の生命の核を形成している。人を救いたいという純粋な願い。それは、子供の頃に見た、病気で苦しむ人々への同情から始まった。
そして、自分への愛情。
それは、彼の生命の最も深い部分に根付いている。初恋などという軽い言葉では表現できない、魂レベルでの結びつき。
ルカの生命も、より鮮明に見える。
十五年という短い時間だが、その中に凝縮された愛と勇気。
姉への深い愛情、失う恐怖、それでも前を向こうとする強さ。すべてが、彼女の生命を輝かせている。
そして、ルカの中に、もう一つの光を見つけた。
金色の、小さな炎。
それは、巫女の血。まだ目覚めていないが、確実にそこにある。いつか、彼女もこの力に目覚めるのだろう。
周囲の自然の命も、より深く感じられる。
滝の水に宿る清らかな生命力。それは、山の頂から流れてきた雪解け水が、大地の恵みを受けて、生命の水となったもの。
岩に生える苔の静かな命。何十年もかけて、少しずつ成長してきた小さな生命。
洞窟に住む小さな生き物たち。コウモリ、虫、微生物。すべてが、大きな生命の輪の中で繋がっている。
そして、何より——
この世界全体が、一つの大きな生命体のように感じられる。
山も、川も、空も、すべてが呼吸している。脈動している。生きている。
■帰路での交流
滝から村への帰り道、チヨは新しい能力を使って、多くのことを発見した。
道端の草花が、静かに命を謳歌している。小さな花一つ一つが、精一杯生きている。その健気さが、心に響く。
虫たちが、懸命に生きている。アリは餌を運び、蝶は花から花へ飛び回る。すべての生命に、目的がある。
「生きることは美しい」
声には出せないが、心の中でそう思った。
途中、小さな村の子供とすれ違った。
五歳くらいの女の子。その生命力は、特に輝いて見えた。純粋で、希望に満ちて、無限の可能性を秘めている。
子供は、チヨたちに向かって何か言った——ようだ。でも、もちろん聞こえない。
ただ、その生命の輝きから、明るい挨拶だったことが分かる。元気いっぱいの「こんにちは!」
健司が子供に返事をしている——らしい。その優しい対応が、彼の生命の熱からも伝わってくる。
子供への優しさ。それは、未来の父親としての資質を示している。
いつか、健司も父親になるのだろう。優しく、頼もしい父親に。
でも、それは自分とではない。
その事実が、少し寂しかった。
ルカも、子供と何か話している。
妹の生命の熱が、優しく揺れている。子供が好きなのだろう。
いつか、ルカも母親になる。そして、この村で、幸せな家庭を築く。
それを見守ることはできないけれど、きっと素晴らしい母親になる。
二人の未来が、輝いて見えた。
自分はもうすぐいなくなるけれど、二人は生き続ける。
それが、嬉しくもあり、寂しくもあった。
■筆談の困難
村に戻って、写真館で休憩していた時、チヨは新たな問題に直面した。
ペンを持って、何か書こうとする。
でも、文字が書けない。
触覚がないため、ペンを正しく持てているかも分からない。紙に触れているかも分からない。筆圧も調整できない。
何度か試みたが、おそらくぐちゃぐちゃな線しか書けていないだろう。
『どうしたの?』
ルカが心配そうに——その感情が熱として伝わってくる——尋ねている。
でも、もう答える術がない。
声も出ない、文字も書けない、手話も見えない。
完全にコミュニケーションの手段を失った。
これは、想像以上に辛い。
伝えたいことは山ほどある。感謝、愛情、励まし、詫び。でも、それを表現する方法がない。
健司が何か思いついたらしく、新しい方法を試み始めた。
地面に大きく文字を書いて、チヨの手を取って——触れてはいないが——なぞらせる。
『分かる?』
かろうじて、文字の形が理解できた。空間の変化として、文字を認識できる。
頷いて答える。これが、今の自分にできる唯一の返答方法。
でも、自分から何かを伝えることは、もうできない。
ただ、受け取るだけ。返すことができない。
それは、深い孤独だった。




