第73話 最後の朝の葛藤
命とは、消える光ではなく、灯される祈りの名。
失われるたびに、何かが世界に刻まれる。
君が見ているのは、終わりではない。
それは、まだ呼ばれていない"始まり"の名だ。
命とは燃ゆる炎の如し
言葉なくとも想い伝え
声なき叫びも天に届く静寂の中にこそ
真実の愛は響きわたる
——『霧姫伝説・命の章』より
■最後の朝の葛藤
1994年5月24日、午前2時。
チヨは完全な静寂の中で目を覚ました。もう何も聞こえない。自分の心臓の音さえも。視覚も失い、記憶も曖昧。でも、今日が重要な日だということは、魂が覚えていた。
振動式の目覚まし時計が震えているのを、存在感知で捉える。隣の部屋からは、ルカ——妹だと教えられた少女——の穏やかな生命の熱が感じられる。
今日、命の欠片を手に入れる。その代償は、おそらく声と聴覚。もう二度と、言葉を発することも、人の声を聞くこともできなくなる。
「最後に、何を言おう」
心の中で考える。
記憶は失ったが、感情は残っている。この二人——健司とルカ——への深い愛情。それを言葉にして伝える、最後の機会。
様々な言葉が心に浮かんだ。
「ありがとう」——これまでの感謝を込めて。 「ごめんなさい」——犠牲を強いることへの謝罪。 「大好き」——素直な気持ちを。 「幸せになって」——未来への願いを。 「忘れないで」——自分勝手な願望。
でも、どれも違う気がした。
最後の言葉は、もっとシンプルで、もっと本質的なものであるべきだ。
そして、ふと思い浮かんだ。
「愛してる」
この一言に、すべてを込められる。感謝も、謝罪も、願いも、すべてが「愛」という言葉に含まれている。
でも、本当にそれでいいのだろうか?
もしかしたら、もっと実用的な言葉の方がいいかもしれない。
「写真を撮って」——自分の使命を引き継いでもらうために。 「欠片を守って」——封印を維持するために。 「健司さんを頼む」——妹への最後の頼み。
いや、やはり違う。
そういった具体的な指示は、もう必要ない。二人なら、きっと正しい道を選んでくれる。
ゆっくりと起き上がり、机に向かう。
見えないが、手探りでペンと紙を見つける。震える手で、伝えたい言葉を書き始める。
書いては消し、また書き直す。触覚がないため、ちゃんと書けているか分からない。でも、心を込めて、一文字一文字を刻んでいく。
『ルカへ
記憶は失っても、あなたが大切な人だということは変わりません。 守りたい、その想いだけは魂に刻まれています。 強く、優しく、美しく生きてください。 あなたの幸せが、私の幸せです。
健司さんへ
名前さえ忘れてしまったけれど、あなたへの想いは消えません。 ありがとう。そして、ごめんなさい。 どうか、幸せになってください。 新しい人生を歩んでください。
二人へ
もし私の声が聞こえたなら、最後に言いたい。 「生きて」 ただそれだけ。でも、それが全て。
愛を込めて』
書き終えて、ペンを置く。
これが、自分が残せる最後の言葉。
いや、まだ声は出せる。最後の一言を、誰に向けて発するか。
■朝の風景
階下に降りると、すでにルカが起きていた。
妹の生命の熱が、不安と決意を帯びて揺れている。今日が特別な日だと、彼女も感じているのだろう。
『おはよう、チヨ姉ちゃん』
地面に書かれた文字の振動で、挨拶が伝わってくる。
『おはよう』
返事を書こうとして、ふと思いとどまる。
まだ声は出せるはず。最後の機会を、朝の挨拶で使うべきか。
いや、もっと大切な瞬間のために取っておこう。
筆談で返事をする。
『早いね。眠れなかった?』
『うん。なんだか胸騒ぎがして』
ルカの不安が、冷たい風となって伝わってくる。彼女の生命の熱が、不規則に揺れている。
『大丈夫?今日、行くの?』
『行かなければ』
使命感だけは、記憶を失っても残っている。欠片を集め、封印を完成させる。それが自分の役目。
朝食の準備を二人で行う。
もう味も分からないし、触覚もない。でも、ルカと一緒に何かをすることが、とても大切に感じられる。
卵を割る動作、フライパンを使う動作。体が覚えている動きを繰り返しながら、ルカの生命の熱を感じる。
妹は一生懸命に料理を作っている。その真剣さ、優しさ、そして悲しみ。すべてが熱となって伝わってくる。
『昨日の夜、考えたの』
ルカが突然、文字を書いた。
『もしチヨ姉ちゃんが声を失ったら、私が代わりに話す』
『どういうこと?』
『チヨ姉ちゃんの言いたいことを、私が代弁する。双子の姉妹みたいに』
その提案に、胸が熱くなった。
記憶はないが、この妹がどれほど自分を愛してくれているか、痛いほど伝わってくる。
でも、それは無理だろう。声を失えば、自分の想いを伝える術もなくなる。ルカがどんなに頑張っても、心を読むことはできない。
『ありがとう』
それでも、その気持ちが嬉しかった。
食事を終えて、ルカが古い写真アルバムを持ってきた。
『これ、見て』
ページをめくると、様々な写真が並んでいる。知らない人々、知らない場所。でも、どこか懐かしい。
『これ、去年の夏祭り』
ルカが説明してくれる。
『チヨ姉ちゃんが撮った写真。すごく綺麗でしょう?』
写真には、祭りの活気、人々の笑顔、花火の光が写っている。モノクロにしか見えないが、その生命力は伝わってくる。
自分が撮ったという実感はない。でも、これらの写真に込められた愛情は感じられる。
一枚一枚を大切に撮った人がいた。それが自分だったのだろう。
■健司との朝の時間
健司が来た時、彼の生命の熱がいつにも増して複雑だった。
愛情、不安、決意、そして深い悲しみ。それらが渦を巻いて、嵐のような熱を放っている。
『おはよう、チヨ』
地面に書かれた文字。その筆跡からも、彼の手の震えが伝わってくる。
『今日は、命の欠片』
『はい』
『声を、失うんだね』
その問いに、チヨは頷いた。
今日で、最後。もう二度と、声を出すことはできなくなる。
『最後に、僕の名前を呼んでくれないか』
健司の願いに、チヨの心が揺れた。
彼の名前。それを最後の言葉にすべきか。
確かに、美しい終わり方かもしれない。愛する人の名前を、最後に口にする。
でも、何か違う気がした。
名前は、その人を識別するための記号。大切なのは、その奥にある想いを伝えること。
『後で』
そう返事をすると、健司の熱が複雑に揺れた。期待と不安が入り混じっている。
三人で朝食を共にする。
チヨは食べられないが、二人の「美味しい」という感情が、温かい光となって伝わってくる。
健司もルカも、普段より多く話しかけてくれる。まるで、今のうちに少しでも多くの言葉を交わしておきたいかのように。
でも、チヨはまだ声を出さない。
最後の言葉は、最も大切な瞬間に取っておきたい。
朝食後、準備をしている間、健司がそっと近づいてきた。
『チヨ、本当は怖いんじゃないか?』
その問いかけに、一瞬戸惑った。
怖い?
確かに、声を失うことは恐ろしい。もう二度と、想いを言葉にできない。歌うことも、笑うことも、泣き声を上げることもできない。
でも——
『大丈夫です』
筆談で答える。
『皆さんがいるから』
健司の熱が、優しく揺れた。そして、彼は懐から何かを取り出した。
『これ、持っていて』
小さな鈴だった。振ると、微かな振動が伝わってくる。
『音は聞こえないけど、振動は感じられるでしょう?僕を呼びたい時は、これを振って』
その優しさに、涙が出そうになった。
声を失っても、繋がる方法を考えてくれている。それが、とても嬉しかった。




