第71話 記憶の崩壊
欠片に触れた瞬間、激しい目眩に襲われた。
時間の渦に巻き込まれ、記憶が砂のように崩れていく。
最初に消えたのは、些細な日常の記憶。
昨日の朝食は何だったか。先週どこに行ったか。先月の天気。
どんどん記憶が剥がれ落ちていく。
次に、少し前の出来事。
写真館での日々。村での撮影。人々との会話。
名前が、顔が、出来事が、次々と消えていく。
そして——
『あれ?』
自分が何をしているのか、分からなくなった。
なぜここにいるのか。何のために欠片を集めているのか。
すべてが曖昧になっていく。
『私は...誰?』
名前が出てこない。自分が何者なのか、思い出せない。
でも、一つだけ、強く心に残っているものがあった。
「守る」
誰かを守らなければならない。それだけは、魂に刻まれているかのように残っていた。
誰を守るのかは分からない。でも、とても大切な人。
そして、もう一つ。
「愛してる」
誰かを愛している。深く、強く。でも、それが誰なのか思い出せない。
顔も、名前も、何も分からない。
でも、確かに愛している。
それだけが、崩れゆく自我の中で、最後まで輝いていた。
■新しい時間知覚
記憶を失った代わりに、新しい感覚が開けた。
時間の流れが、見えるようになった。
過去から未来へと流れる、大きな河。その中に、無数の支流がある。選択によって分かれる、可能性の河。
この選択をすれば、こうなる。別の選択をすれば、ああなる。無限に分岐する時間の流れが、すべて見える。
そして、人々の「時」も見えた。
残された寿命、過ごしてきた時間、大切な瞬間。すべてが、その人を包む時間の衣として見える。
近くにいる二人——名前は分からないが、大切な人だということは分かる——の時間も見えた。
一人は若い男性。二十五年の時を生き、あと六十年ほどの時間を持っている。その時間の中に、深い愛と献身が刻まれている。医師として多くの命を救い、そして——
自分を待ち続ける時間が見える。
ずっと、ずっと、独りで待ち続ける。名前も知らない誰かを。
もう一人は少女。十五年の短い時間だが、その密度は濃い。愛情と勇気に満ちた、美しい時間。
そして、彼女の未来も見えた。
成長し、強くなり、そして——
「夢写師」として、何かを探し続ける姿が。
この二人は、自分にとって特別な存在だ。それは分かる。
でも、どう特別なのかは、もう思い出せない。
■時の針が揺れる瞬間
三人で——自分を含めて三人だと、なぜか分かる——山を下りていく時、不思議なことが起きた。
懐から、何かが落ちた。
存在感知で確認すると、それは懐中時計だった。古い、美しい銀の時計。
七時四十二分で止まっている。
でも——
「あ...」
声は出ないが、驚きの感情が湧き上がった。
一瞬、ほんの一瞬だけ、針が震えた。
まるで、動き出そうとしているかのように。
でも、すぐに止まった。まだ、その時ではないらしい。
少女——妹だと、かすかに感じる——が時計を拾い上げる。
大切そうに、胸に抱きしめる仕草。
そうだ、これは彼女に渡すものだった。なぜかは分からないが、そういう気がする。
『これ、大切にする』
少女の言葉が、地面の文字で伝わってくる。
その瞬間、また針が震えた。
七時四十二分。その時刻に、何か大切な意味がある。思い出せないが、魂が覚えている。




