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第70話 言えなかった想い

『本当は、もっと早く言いたかった』


健司は続ける。


『でも、いつも言えなかった』


中学の文化祭。ロミオとジュリエットを演じた時。舞台の上で、「愛してる」というセリフを言いながら、本心を込めていた。でも、芝居が終われば、また普通の幼馴染に戻った。


高校の卒業式。ボタンをくださいと言われて、渡したかったのはチヨだけだった。でも、彼女は何も言わなかったから、自分からも言えなかった。


医学部の入学式の朝。駅まで見送りに来てくれたチヨ。「頑張って」と手を振る姿を見ながら、「好きだ」と叫びたかった。でも、できなかった。


研修先を決める時。都会に残るか、村に帰るか。本当の理由を言えないまま、「地域医療に貢献したい」という建前を並べた。


『臆病だった』


健司は自嘲的に書く。


『でも、もう時間がない』


彼は立ち上がり、チヨの見えない手を取ろうとする。触れても、チヨには感じられない。でも、その仕草に込められた想いは伝わる。


『愛してる』


シンプルな言葉。でも、その中に25年分の想いが詰まっている。


『子供の頃から、ずっと』


初恋という言葉では軽すぎる。物心ついた時から、チヨは特別な存在だった。


『君の笑顔が見たくて、医者になった』 『君の側にいたくて、村に帰った』 『君のためなら、何でもできる』


でも——


『君を救えない』


健司の熱が、激しく揺れる。医師としての無力感、男としての不甲斐なさ。


『医学は、呪いを解けない』 『愛は、運命を変えられない』


その苦悩が、痛いほど伝わってくる。


■記憶を失う恐怖


チヨは、健司の告白を全身で受け止めていた。


心が激しく揺れる。答えたい、想いを伝えたい。でも——


『健司さん』


震える手で、地面に文字を書く。正確に書けているか分からないが、必死に想いを込める。


『私も——』


でも、そこで手が止まった。


私も、何?


愛してる?でも、自分の気持ちがはっきりしない。記憶が曖昧になっているせいで、感情まで不確かになっている。


ただ、一つだけ確かなことがある。


この人は、大切な人。守りたい人。そばにいて欲しい人。


それが「愛」なのかは分からない。でも——


『大切です』


それだけを書いた。


健司の熱が、少し和らいだ。喜びと、切なさが入り混じった複雑な感情。


『それだけで、十分だ』


彼は優しく返した。


『君が忘れても、俺は覚えてる』 『君がいなくなっても、俺は待ってる』 『それが、俺の愛し方だから』


三人は、時の欠片がある場所へ向かった。


村外れの鐘楼跡。かつて時を告げていた場所に、時の欠片があるという。


道中、チヨは必死に記憶を繋ぎ止めようとした。


健司の名前、ルカの名前、自分の名前。使命のこと、欠片のこと。


でも、それらは砂のように指の間からこぼれ落ちていく。


「私は...誰?」


何度も自問自答する。そのたびに、答えが曖昧になっていく。


■鐘楼跡での異変


鐘楼跡に着くと、時間の澱みを感じた。


ここは、時の流れが歪んでいる。過去と現在と未来が混在し、渾沌としている。


崩れかけた鐘楼の基礎、錆びた鐘、朽ちた木材。すべてが、時の残骸のように散らばっている。


『時の欠片は、鐘の中に』


健司が説明してくれる。


チヨが魂写機を構えると、強い時間の歪みを感じた。そこに欠片があることは間違いない。


しかし、近づこうとすると、奇妙なことが起きた。


一歩進むごとに、時間の流れが変わる。


ある場所では時間が加速し、別の場所では減速する。まるで、時間の迷路。


『危ない!』


ルカが警告する。


チヨの髪の一部が、瞬間的に白くなったらしい。時間加速の影響で、部分的に老化したのだ。


『引き返そう』


健司が提案するが、チヨは首を振った。


『大丈夫。道は見えてます』


実際、存在感知と写し世を見る力を組み合わせると、安全な道筋が分かった。時間の流れが安定している、細い道。


慎重に進んでいく。


その途中で、不思議な光景を「見た」。


■時間の層


鐘楼跡には、様々な時代の記憶が層になって重なっていた。


まず見えたのは、鐘楼が建てられた時の光景。


村人たちが協力して、立派な塔を建てている。完成した時の喜び、初めて鐘が鳴った時の感動。


次に、鐘楼が現役だった頃。


毎日、決まった時刻に鐘が鳴る。朝の始まり、昼の区切り、夕暮れの合図。村人たちは、鐘の音で生活のリズムを刻んでいた。


そして、鐘楼が崩れる瞬間。


地震でも老朽化でもない。時の欠片の暴走が原因だった。制御を失った時間の力が、鐘楼を一瞬で朽ちさせた。


若い建物が、瞬時に廃墟となる。恐ろしい光景だった。


でも、さらに深い層に、別の真実があった。


鐘楼は、ただの時計塔ではなかった。


ここは、時の巫女が儀式を行う場所でもあった。満月の夜、巫女は鐘楼の頂上で祈りを捧げ、時の流れを整えていた。


その巫女の一人が——


「お母さん...?」


美咲の若い姿が見えた。白い巫女装束で、真剣な表情で祈っている。


そして、美咲もまた、同じ道を歩んでいたことが分かった。


感覚を失い、記憶を失い、最後には——


でも、美咲は最後まで欠片を集められなかった。8つ目で力尽き、不完全な封印のまま消えていった。


だから、今、チヨが——


いや、自分の名前も曖昧になってきた。


私は、誰?


■時の欠片の入手


鐘の前に立つ。


巨大な青銅の鐘。その内側に、時の欠片が埋め込まれている。


手を伸ばそうとした時——


『待って』


健司が止めた。


『本当に、これでいいの?』


その問いに込められた想いが、痛いほど伝わってくる。


『記憶を失ったら、もう戻れない』


『分かってます』


『僕たちのことも、忘れるかもしれない』


『それでも』


名前も思い出せない自分だが、使命だけは覚えている。


皆を守る。それが、自分の存在理由。


『でも...』


言葉が続かない。何を言おうとしていたのかも、すぐに忘れてしまう。


その時、ルカが前に出た。


『チヨ姉ちゃん』


妹——そうだ、この子は妹だ——の熱が、強く輝いている。


『忘れてもいいよ』


『ルカ?』


名前を思い出せてよかった。


『だって、私は忘れない。チヨ姉ちゃんのこと、全部覚えてる。だから、チヨ姉ちゃんが忘れても、私が覚えてる』


十五歳の妹の強さに、涙が出そうになった。


『健司先生も、きっと覚えてる。村のみんなも、写真が残ってる。だから』


ルカの手が、チヨの手を探す。触れることはできないが、その動きは分かる。


『安心して、忘れて。私たちが、全部覚えてるから』


なんて残酷で、なんて優しい言葉だろう。


健司も頷いた。


『ルカちゃんの言う通りだ。君が忘れても、僕たちは忘れない』


二人の愛に包まれて、決心した。


『ありがとう』


そして、時の欠片に手を伸ばした。

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