第7話 研修医の健司
「おはようございます、チヨさん」
若い男性の声がした。振り返ると、佐藤健司が白衣姿で立っていた。二十五歳の彼は、村で唯一の診療所で研修医として働いている。端正な顔立ちに、知的な眼鏡がよく似合っていた。肩にかけた往診鞄が、朝日に照らされて光っている。
「健司さん、おはようございます。朝の往診ですか?」
「ええ、山田のおばあちゃんの様子を見に。それと……」健司は少し頬を赤らめながら、「今日も写真のご注文、入ってますよ」
チヨと健司は幼馴染だった。子供の頃から一緒に遊び、お互いの夢を語り合った仲。健司が医学部に進学してからも、休みのたびに村に戻ってきては、チヨの写真館に顔を出していた。そして去年、研修先として村の診療所を選んだのは……
医学書の余白に、無意識に書かれた数字。 「7:42」 なぜこの時間を書いたのか、健司自身も分からない。
「そういえば」健司は声を潜めた。「昨日からの霧、変だと思いませんか?」
「気づいていたの?」チヨも小声で答える。
「ええ、医学的には説明できないんですが、患者さんたちの体調に微妙な変化が見られて。特に記憶力の低下が……」
健司の真剣な表情に、チヨは胸がときめいた。彼の医師としての使命感と、村を心配する優しさ。それは彼女が密かに惹かれている部分でもあった。
「私も父の残した記録を読み返してみたんです」健司は続けた。「村の記憶が危機に瀕したときの兆候が、今起きていることと一致しているんです」
チヨは驚いた。健司の家系もまた、村の秘密を知る家の一つだったのだ。
「それに、父の日記には『影向稲荷』という神社の名前が何度も出てくるんです。何か関係があるのでしょうか」
影向稲荷——その名前を聞いて、チヨの背筋に冷たいものが走った。確かに村の外れにある小さな稲荷だが、普段は誰も近づかない場所だ。
「健司さん……」
「チヨ、もし何か困ったことがあったら、必ず相談してください」健司は真剣な眼差しでチヨを見つめた。「医者として、そして……幼馴染として、力になりたいんです」
その言葉に込められた想いを、チヨは感じ取っていた。でも、今はまだ……
「ありがとう、健司さん。頼りにしています」
健司の表情が少し明るくなった。「じゃあ、また後で。診療所に顔を出してくださいね」
「ええ、必ず」
健司が去っていく背中を見送りながら、ルカがにやにやと笑った。
「健司先生、チヨ姉ちゃんのこと好きなんだね〜」
「ルカ!」チヨは頬を赤らめた。「そんなこと……」
「だって、チヨ姉ちゃんを見る目が違うもん。それに、都会の大きな病院からの誘いを断って、わざわざこんな田舎に戻ってきたんでしょ?」
十五歳の妹は、恋愛に関しては鋭い観察眼を持っていた。チヨは話題を変えようと、足早に市場へ向かった。