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第65話 触覚を失った朝

氷は記憶を封じ込める。


触れることはできなくても、 その中に眠る想いは永遠。


わたしの体温は消えた。

でも、あなたを想う熱さは、氷の中でも燃え続ける。


それが、最後の温もり。


氷は静寂の結晶すべてを凍てつかせども

その核には熱き想いあり

触れることなきとも

心の温もりは永遠に——『霧姫伝説・氷の章』より


■触覚を失った朝


1994年5月22日、午前4時。


チヨは完全な暗闇の中で目を覚ました。もう何も見えない。振動式の目覚まし時計が規則正しく震えているのを感じる。


昨日失った視覚。もう二度とルカの笑顔も、健司の優しい眼差しも見ることはできない。でも、命の熱を感じる新しい力を得た。それが今の自分を支えている。


ベッドから起き上がる。触覚はまだある。シーツの感触、床の冷たさ、空気の流れ。これらを頼りに、慎重に動く。


今日で触覚を失う。もう誰にも触れられなくなる。その事実が、胸を締め付ける。


手探りで服を着替える。母から受け継いだ藍染めの着物。その布地の感触を、最後に感じておきたい。滑らかな絹の手触り、刺繍の凹凸、帯の硬さ。一つ一つを、指先で確かめるように触れていく。


「これが最後...」


声に出そうとして、出ない。でも、心の中で覚悟を固める。


階段を降りて、台所へ向かう。壁を伝い、手すりを頼りに。この家で育ったから、見えなくても動ける。木の温もり、壁の冷たさ、それぞれの素材の違いを感じながら進む。


でも、触覚を失ったら、どうなるのだろう。


朝食の準備を始める。包丁の重み、まな板の固さ、食材の感触。すべてが愛おしい。


野菜を切る時の抵抗感、肉の柔らかさ、卵を割る時の殻の感触。普段は意識しないような細かな感覚も、今は宝物のように大切だ。


「今日で最後...」


もう一度、心の中でつぶやく。明日からは、これらすべてを感じることができなくなる。


■最後の触れ合い


朝食を作っていると、ルカの気配を感じた。命の熱が近づいてくる。


『おはよう、チヨ姉ちゃん』


ルカの手話は見えないが、手を取って文字を書いてくれる。その手の温もりが、とても愛おしい。小さくて柔らかい、妹の手。


『おはよう。今日も早いのね』


筆談で返事をする。ペンを持つ感触、紙の手触り。これも今日で最後。


『今日は...触覚がなくなる日でしょう?』


ルカの手が震えているのが伝わる。恐怖と不安が、微かな震えとなって現れている。


『だから、今のうちに』


ルカがぎゅっと抱きついてきた。細い腕が、しっかりと自分を抱きしめている。妹の体温、鼓動、震え。すべてを心に刻む。


ルカの髪がふわりと頬に触れる。シャンプーの香りは分からないが、髪の柔らかさは感じられる。背中を撫でると、制服の布地の感触。その下で、妹の体が小さく震えている。


『ずっと抱きしめていたい』


ルカの想いが、熱となって伝わってくる。


『私も』


二人でしばらく抱き合っていた。姉妹の最後の抱擁。この温もりを、永遠に覚えていよう。


朝食の時、ルカがずっと手を握っていてくれた。食事の間中、その小さな手の感触を感じていた。指の細さ、手のひらの温かさ、時折ぎゅっと力を込める仕草。


『チヨ姉ちゃんの手、柔らかい』


『ルカの手は、あったかいね』


他愛ない会話。でも、触覚を通じた最後の交流。


健司が迎えに来た時、彼もまた、チヨの手を取った。


『おはよう』


その手は、医師らしくしっかりしていて、でも少し震えていた。大きくて温かい、安心感のある手。


『今日で...』


『はい。触覚を失います』


健司の手が、ぎゅっと力を込めた。まるで、この感触を永遠に覚えていたいかのように。


『最後に、ちゃんと触れておきたくて』


その想いが、痛いほど伝わってきた。


チヨも、健司の手を握り返した。指の形、手のひらの厚み、脈打つ血管の感触。すべてを記憶に刻み込む。


三人で手を繋いで、しばらくそのままでいた。これが最後の触れ合い。明日からは、もう誰とも触れ合えない。


■氷雪神社への山道


氷雪神社は、村の北東にある古い社だった。冬でもないのに、その周辺だけは常に冷気が漂っているという。


山道を登りながら、チヨは最後の触覚を味わっていた。


地面を踏みしめる感触。土の柔らかさ、石の硬さ、落ち葉のさくさくとした感触。風が肌を撫でる感覚。髪がなびく感じ、着物の裾が揺れる感覚。時折触れる木々の幹。樹皮のざらざらとした感触、苔のしっとりとした感じ。


すべてが愛おしい。


『大丈夫?』


健司が心配そうに手を引いてくれる。その手の感触も、しっかりと記憶に刻む。


『ここ、段差があるよ』


ルカも反対側から支えてくれる。妹の小さな手が、しっかりと自分を導いてくれる。


途中、小さな小川を渡った。


『靴を脱いで渡ろう』


健司の提案で、三人は素足で川を渡ることにした。


靴を脱ぐ。靴下を脱ぐ。素肌が空気に触れる感覚。


そして、水に足を入れる。


「冷たい!」


思わず心の中で叫んだ。氷のように冷たい水が、足を包む。小石の感触、流れる水の抵抗。足の指の間を水が流れていく感覚。


痛いほどの冷たさだが、それすら愛おしい。この冷たさも、今日で感じられなくなる。


『冷たい?』


ルカが心配そうに聞く。


『気持ちいい』


本当だった。この冷たさも、今日で感じられなくなる。だからこそ、一つ一つの感覚が貴重だった。


川から上がって、草の上で足を拭く。草の感触、タオルの柔らかさ。普段なら気にも留めないような感覚が、今は宝物のように感じられる。


山道の途中で、大きな桜の木があった。もう花の季節は過ぎているが、幹は太く、生命力に満ちていた。


チヨは立ち止まり、幹に手を当てた。


ざらざらとした樹皮の感触。深い溝、小さな突起、所々に生えた苔。その下に流れる、大地から吸い上げた水の脈動。かすかな振動として、木の生命を感じる。


『どうしたの?』


『この木の感触を、覚えておきたくて』


健司とルカも、一緒に木に触れた。三人で大きな桜の木を囲むように立つ。


『あったかい』


ルカが言った。


『木って、生きてるんだね』


そう、生きている。太陽の温もりを蓄えた樹皮は、ほんのりと温かい。そして、その生命の温もりを感じられるのも、あと少し。


チヨは、できるだけ多くのものに触れながら歩いた。


岩の冷たさ、葉っぱの柔らかさ、蜘蛛の巣の繊細さ。風に揺れる草花、朝露に濡れた枝。すべてが、最後の贈り物のように感じられた。

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