第63話 憎しみの芽生え
千年の時を経て、二体は互いを憎み合うようになっていた。
いや、正確には、自分の中にある「もう一人の自分」を憎んでいた。
シロミカゲは思う。
「クロミカゲがいなければ、すべての記憶を守れるのに」
「あいつのせいで、大切な記憶が失われていく」
「忘却など、ただの逃避ではないか」
クロミカゲは思う。
「シロミカゲがいなければ、すべての苦しみを消せるのに」
「あいつのせいで、人々は過去に囚われ続ける」
「記憶への執着など、ただの未練ではないか」
しかし、心の奥底では知っていた。
自分たちは元は一つ。互いがいなければ、不完全な存在でしかないことを。
憎しみは、愛情の裏返し。
最も近い存在だからこそ、最も遠い存在になってしまった。
■巫女たちとの関わり
シロミカゲは、代々の巫女たちと深い関わりを持った。
初代の橋爪千代。
彼女は強い意志を持った女性だった。まだ若い娘だったが、その瞳には確固たる決意が宿っていた。
「記憶を守ることが、私の使命」
千代は迷いなく言った。
「たとえどんな犠牲を払っても、村の記憶を未来に繋ぐ」
シロミカゲは千代に、写し世の作り方を教えた。
「現世と重なるもう一つの世界。そこでは、すべての記憶が永遠に保存される」
「どうやって?」
「己の魂を核として、世界を編む。それが巫女の究極の術」
千代は躊躇なく頷いた。その覚悟の強さに、シロミカゲは感銘を受けた。
二代目の橋爪雪。
彼女は優しい心を持っていた。千代とは対照的に、繊細で感受性が強い女性だった。
「苦しんでいる人を見ると、辛い」
雪は涙を流した。
「記憶に縛られて、前に進めない人たち。でも、記憶を消すことはできない」
シロミカゲは雪に、記憶を癒す方法を教えた。
「完全に消すのではなく、痛みを和らげる術がある」
それは、クロミカゲの力の一部を真似たものだった。分離してなお、互いの技術は繋がっている。
三代目の橋爪美咲。チヨの母。
彼女は、これまでの巫女とは違っていた。
「私には、守りたい人がいます」
美咲は幼いチヨとルカを見つめながら言った。お腹には一人、腕にはもう一人。
「この子たちのために、村を守ります。でも...」
「でも?」
「いつか、違う道があるかもしれない。そんな予感がするのです」
美咲の直感は鋭かった。しかし、彼女は最後まで欠片を集められなかった。八つ目で力尽き、写し世へと消えた。
そして今、四代目の橋爪チヨ。
■チヨとの出会い
シロミカゲが初めてチヨを見たのは、彼女がまだ赤ん坊の時だった。
美咲に抱かれた小さな命。しかし、その魂の輝きは、他の誰とも違っていた。
「この子は...」
シロミカゲは息を呑んだ。
金色の瞳の奥に、不思議な光が宿っている。それは、光でも影でもない、別の何か。
「特別な子なのですね」
美咲が微笑んだ。
「ええ、きっと。でも、それが幸せなことかは...」
母の不安は的中した。チヨは確かに特別だった。
成長するにつれ、その特別さは際立っていった。
金色の瞳の輝きが、他の巫女たちとは違う。
そして何より、彼女の魂は矛盾を抱えることができた。
普通の巫女は、記憶を守るか、忘却を選ぶか、どちらか一方に偏る。しかし、チヨは違った。
彼女は、矛盾を抱えることができる。
大切な記憶を守りたいと願いながら、同時に、人々の苦しみも理解している。
忘れることの必要性を認めながら、記憶の大切さも知っている。
それは、かつての銀色の狐神に似ていた。
「もしかしたら」
シロミカゲは考えた。
「彼女なら、我らを一つに戻せるかもしれぬ」
■新たな可能性
それは、千年間考えもしなかった可能性だった。
分離は不可逆だと、霧姫も言っていた。一度分かれたものは、二度と戻らない。
しかし、もし強い魂の持ち主が、光と影の両方を受け入れることができたら――
いや、それは危険すぎる。
一つの人間が、相反する力を宿せば、その魂は引き裂かれてしまう。ミカゲが分離を余儀なくされたように。
チヨを、そんな危険に晒すわけにはいかない。
しかし、このままでは、いずれ世界のバランスが崩れる。
記憶と忘却、光と影、保存と浄化。すべてが極端に偏れば、世界は歪んでしまう。
既に、その兆候は現れている。
写し世は肥大化し、現世を圧迫し始めている。
忘却の霧は濃くなり、人々から大切な記憶まで奪い始めている。
バランスが、崩れかけている。




