第62話 分離の決断
「ミカゲよ、聞け」
霧姫の声が、厳かに響いた。
「お前を二つに分かつことにする」
「二つに?」
「そうだ。光と影、記憶と忘却、保存と浄化。それぞれを司る、二つの存在に」
ミカゲは震えた。自分が引き裂かれるということか。
「それは...可能なのですか」
「可能だ。だが、大きな代償を伴う」
霧姫は続けた。
「一度分かれれば、二度と完全に一つには戻れぬ。そして、それぞれが不完全な存在となる」
「不完全?」
「光だけでは眩しすぎ、影だけでは暗すぎる。バランスを保つことが、困難になるだろう」
それでも、今のままでは世界が歪んでしまう。ミカゲ自身も、狂気に陥りかけている。
「...お願いします。私を、分けてください」
ミカゲの決断に、霧姫は深く頷いた。
■分離の儀式
月のない夜、霧姫は特別な儀式の準備を始めた。
人里離れた山の頂上に、九つの鏡を円形に配置する。それぞれの鏡は、純銀で作られ、月の光を集めるように磨き上げられていた。
中央に座らせたミカゲは、不安そうに霧姫を見上げた。
「霧姫様、私は...どうなるのでしょう」
「お前は、お前のままだ。ただ、二つになるだけ」
「もう、今の私ではなくなる」
「そうだ。だが、それもまた運命」
霧姫は、古い言葉で呪文を唱え始めた。それは、世界が生まれた時から存在する言葉。創造と破壊を司る言葉。
九つの鏡が共鳴し始めた。
キィィィン...
高い音が響く。それは、この世のものとは思えない響きだった。
ミカゲの体が光り始めた。
銀色の毛が、少しずつ白と黒に分かれていく。まるで、昼と夜が分離するように。
「ああっ!」
ミカゲは苦痛の叫びを上げた。
魂が引き裂かれる痛み。一つの存在が二つに分かたれる苦しみ。それは、死よりも辛い体験だった。
体の右半分が白く、左半分が黒く染まっていく。そして、その境界線で、激しい光が発生する。
「耐えよ、ミカゲ!」
霧姫の声が響く。
「これを乗り越えれば、新たな存在として生まれ変わる」
光が爆発的に広がり、鏡が次々と砕け散った。
パリン、パリン、パリン...
九つの鏡が、すべて粉々になる。
そして――
■双子の誕生
煙が晴れると、そこには二体の狐がいた。
一体は純白の毛並みを持ち、優しい金色の瞳をしていた。神々しく、慈愛に満ちた姿。
「我はシロミカゲ。記憶を守り、伝える者」
もう一体は漆黒の毛並みを持ち、深い紫色の瞳をしていた。威厳があり、厳格な雰囲気。
「我はクロミカゲ。記憶を浄化し、解放する者」
二体は向かい合い、元は一つだった存在を確認し合った。
同じ顔、同じ姿。しかし、もはや別の存在。
「もう、共にあることはできぬ」
シロミカゲが悲しそうに言った。
「されど、我らは表裏一体」
クロミカゲが応じた。
「光あるところに影あり」
「記憶あるところに忘却あり」
二体は同時に霧姫を見た。
霧姫は泣いていた。自らの創造物を引き裂いたことへの後悔と、それでも必要だった決断への苦しみ。
「許せ。これが唯一の道だった」
「霧姫様...」
シロミカゲが言いかけたが、霧姫は手を上げて止めた。
「これより、汝らはそれぞれの道を行け。しかし、覚えておくがよい」
霧姫は二体の狐に告げた。
「元は一つ。いつか再び、一つになる時が来るやもしれぬ」
「それは、いつ?」
「分からぬ。百年先か、千年先か、あるいは永遠に来ぬか」
霧姫は続けた。
「だが、もし強い魂を持つ者が現れ、光と影の両方を受け入れることができたなら...」
「その時、我らは」
「うむ。再び一つとなり、完全な存在として蘇るだろう」
■千年の孤独
分離から千年。
シロミカゲとクロミカゲは、それぞれの使命を果たし続けた。
シロミカゲは村を見守り、大切な記憶が失われぬよう導いた。巫女たちと契約を結び、代々、記憶を守る術を伝えた。
「記憶は宝。決して失ってはならぬ」
彼の教えを受けた巫女たちは、村の記憶を守り続けた。写真として、物語として、歌として。
そして、写し世という特別な領域を作り出した。現世では失われた記憶も、そこでは永遠に保存される。
しかし、心の奥では常に問い続けていた。
「すべての記憶を残すことが、本当に正しいのか」
辛い記憶に苦しむ人々を見るたびに、クロミカゲの考えも理解できた。時には、忘れることも必要なのではないか。
でも、それは自分の役目ではない。自分は記憶を守る者。それ以上でも、それ以下でもない。
シロミカゲは孤独だった。
半身を失った痛みは、千年経っても癒えない。時折、クロミカゲの気配を感じることがある。遠くで、同じように孤独に耐えているのが分かる。
しかし、決して会うことはできない。光と影が交わることは、世界の理に反するから。
■クロミカゲの道
一方、クロミカゲは影から人々を救っていた。
耐えがたい記憶を抱える者から、そっと痛みを取り除く。忘却の霧で包み込み、新しい人生を歩ませる。
「忘却もまた、慈悲である」
彼の力で、多くの人々が救われた。戦争の記憶、虐待の記憶、喪失の記憶。それらから解放されて、新しい一歩を踏み出すことができた。
記憶を喰らい、それを無に還す。それがクロミカゲの役目。
だが、彼もまた葛藤していた。
「忘れることで、本当に人は救われるのか」
大切な人の記憶まで失い、空虚な目をした人々を見るたびに、シロミカゲの信念も理解できた。
記憶があるからこそ、人は人たり得るのではないか。痛みも含めて、それが人生なのではないか。
クロミカゲもまた、孤独だった。
人々は彼を恐れた。記憶を奪う者、忘却の使者として。必要悪として受け入れられても、愛されることはない。
唯一理解し合えるはずの片割れとは、永遠に会えない。
時折、シロミカゲの気配を感じる。遠くで、同じ孤独と戦っているのが分かる。でも、近づくことはできない。




