第61話 千年の奉仕
ミカゲは、見事にその役目を果たした。
村々を巡り、人々の記憶を整える。まるで庭師が庭を手入れするように、丁寧に、慎重に。
戦で家族を失った男の元へ行く。その記憶から、最も残酷な場面――家族が苦しむ姿――を和らげる。しかし、家族への愛情、共に過ごした幸せな日々は残す。
「痛みは薄れても、愛は残る。それでよいのです」
病で子を亡くした女の元へも。子供が苦しむ姿を薄れさせ、代わりに笑顔の記憶を強める。
「あの子は、苦しんでばかりいたのではありません。笑顔の時間の方が、ずっと長かったのです」
老いた夫婦の元へ。些細な諍いの記憶を和らげ、共に歩んだ歳月の美しさを際立たせる。
「五十年連れ添って、喧嘩をしたのは数えるほど。それよりも、共に笑った日々の方が大切でしょう」
ミカゲは完璧なバランスを保っていた。
人々は狐神を「記憶守」と呼び、崇めた。銀色の狐が現れると、人々は安堵の息をついた。自分たちの記憶が、適切に守られることを知っていたから。
村の入り口に、小さな祠が建てられた。そこに供え物をして、記憶守の加護を願う。
「どうか、この幸せな記憶をお守りください」
「苦しい記憶を、少しだけ和らげてください」
ミカゲは、すべての願いに耳を傾けた。そして、その人にとって最善の形で、記憶を整えていった。
■最初の迷い
しかし、時が経つにつれ、ミカゲの中で葛藤が生まれ始めた。
ある日、ミカゲは一人の老婆に出会った。
老婆は百歳を超え、多くの記憶を抱えていた。その重みに押しつぶされそうになりながら、必死に生きていた。
「お願いです、記憶守様」
老婆は涙を流しながら懇願した。
「夫の記憶を、すべて消してください」
ミカゲは驚いた。今まで、完全に記憶を消すことを願う者はいなかった。
「なぜですか?愛する人の記憶を消すなど」
「苦しいのです」
老婆は震える声で答えた。
「毎日、夫の顔を思い出します。声を思い出します。優しい笑顔も、温かい手も。でも、もう会えない。この苦しみが、七十年も続いているのです」
七十年。夫を亡くしてから、それだけの歳月が流れていた。
「幸せな記憶だけ残しましょう」
ミカゲは提案した。それが、今までのやり方だった。
「いいえ」
老婆は首を振った。
「幸せな記憶があるから、今が辛いのです。いっそすべて忘れられたら、どんなに楽か」
この時、ミカゲの中で初めて疑問が生まれた。
記憶を残すことは、本当に優しさなのだろうか。忘れることは、本当に残酷なのだろうか。
「少し、考えさせてください」
ミカゲは答えた。初めて、即答できなかった。
■相反する願い
別の村では、正反対の願いを聞いた。
若い女が、死んだ子供の記憶をすべて残してほしいと願った。
「苦しくても構いません」
女は涙を流しながら言った。
「あの子が生きた証を、一つも失いたくないのです。最初の泣き声も、最後の吐息も、すべて」
「それは、あなたを苦しめ続けますよ」
「構いません。苦しみも、あの子との繋がりです」
ミカゲは困惑した。
人によって、記憶への想いはこんなにも違う。何が正しくて、何が間違っているのか。
ある者は忘れたがり、ある者は忘れまいとする。
ある者は痛みからの解放を求め、ある者は痛みと共に生きることを選ぶ。
千年の経験をもってしても、答えは出なかった。
■内なる分裂
ミカゲの中で、二つの声が聞こえるようになった。
『記憶はすべて残すべきだ』
一つの声は言う。
『人の生きた証、愛した証。それを消すことは、その人の人生を否定することだ。痛みも喜びも、すべてがその人を形作っている』
『いや、苦しい記憶は消すべきだ』
もう一つの声が反論する。
『人は忘れることで前に進める。過去に縛られては、未来は開けない。時には、忘却も救いとなる』
最初は小さな囁きだった。しかし、日を追うごとに、声は大きくなっていった。
ミカゲは苦しんだ。
一つの体の中で、相反する想いがぶつかり合う。まるで、自分の中にもう一人の自分がいるような感覚。
昼は記憶を守ろうとする自分。
夜は記憶を消そうとする自分。
その境界が、次第に曖昧になっていく。
■霧姫への相談
ある満月の夜、ミカゲは霧姫の元を訪れた。
千年ぶりの再会だった。霧姫は変わらず美しく、慈愛に満ちていた。
「どうした、ミカゲ。顔色が優れぬが」
「霧姫様、私は迷っています」
ミカゲは正直に告白した。己の中で起きている葛藤、相反する声、答えの出ない問い。
「記憶を残すべきか、消すべきか。もはや判断がつきません」
霧姫は、銀色の狐を優しく見つめた。その瞳には、深い理解と悲しみが宿っていた。
「それは、一つの存在が背負うには重すぎる問いだ」
霧姫は静かに言った。
「千年もの間、よく耐えた。だが、もう限界なのだろう」
「申し訳ございません。私の力不足で」
「違う。これは必然だった」
霧姫は月を見上げた。満月が、二人を照らしている。
「光があれば影がある。喜びがあれば悲しみがある。すべてを一つの存在が司ることは、もはや無理なのかもしれない」




