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第60話 創世神話

光と影は、かつて一つだった。


記憶と忘却も、愛の両面。 どちらが欠けても、世界は歪む。


千年の孤独を経て、 今、再び一つになる時が来た。


巫女の犠牲によって。 いや――巫女の愛によって。


太初に一つの魂ありき光と影を共に抱きて永き時を経て二つに分かたれされど運命の糸は切れずいつか再び一つとならん——『霧姫伝説・双神の章』より


■創世神話


太古の昔、世界がまだ若かった頃。記憶という概念が生まれたばかりの時代。


霧姫は、天と地の間に立ち、人間たちの営みを見守っていた。彼女は神でもなく人でもない、その中間の存在として生まれた。神々の力と人間の心、その両方を持つ稀有な存在。


霧姫の髪は夜のように黒く、瞳は金色に輝いていた。その姿は、後の巫女たちが受け継ぐことになる。白い衣を纏い、手には記憶を司る宝珠を持っていた。


最初の人間たちは、記憶を持て余していた。


神々から与えられた「記憶」という贈り物。それは確かに素晴らしかった。経験から学び、知識を蓄積し、愛する者との思い出を心に留めることができる。


喜びも悲しみも、すべてが鮮明に残り続ける。初めて火を見つけた感動、初めて愛を知った幸福。満天の星を見上げた時の畏怖、新しい命が生まれた時の歓喜。


しかし――


愛する者の死も、戦いの惨さも、裏切りの痛みも、決して薄れることがない。


ある老人は、百年前に息子を戦で失った。その時の光景が、昨日のことのように蘇る。血に染まった大地、息子の最期の言葉、自分の無力さ。毎夜、同じ悪夢に苛まれる。


ある女は、幼い娘を疫病で失った。娘の苦しむ姿、自分にできることが何もなかった絶望、冷たくなっていく小さな手。その記憶が、鮮明すぎるほどに残っている。


老人たちは、百年前の些細な諍いを昨日のことのように覚えていた。誰が誰を侮辱したか、どんな言葉で傷つけられたか。怒りと憎しみが、時を経ても薄れない。


子供たちは、一度見た悪夢を何度も繰り返し見た。闇の恐怖、化け物の姿、親を失う恐怖。それらが心に焼き付いて、離れない。


女たちは、失った子の泣き声を永遠に聞き続けた。幻聴ではない。記憶があまりにも鮮明すぎて、現実と区別がつかなくなっていた。


人々は狂い始めた。


記憶の重さに耐えられず、自ら命を絶つ者が後を絶たなかった。


ある者は崖から身を投げた。落下する瞬間、すべての記憶から解放されることを願って。


ある者は海に入水した。冷たい水が肺を満たす時、苦しい記憶も一緒に流れ去ることを信じて。


ある者は炎に身を焼いた。肉体と共に、記憶も灰になることを望んで。


村々では、集団自殺が相次いだ。生き残った者たちも、正気を保つことが困難になっていった。


「記憶は呪いだ」


生き残った人々は、そう嘆いた。


「忘れることができれば、どんなに楽だろう」


「なぜ神々は、こんな残酷な贈り物を我々に与えたのか」


その嘆きが、天まで届いた時――


■霧姫の慈悲


霧姫は、人間たちの苦しみを見て、深く心を痛めた。


彼女は人間たちの元へ降り立った。霧を纏い、月光のような優しい光に包まれて。


「哀れな人の子らよ」


霧姫の声は、風鈴のように澄んでいた。


「なぜ、そのように苦しむのか」


人々は霧姫に訴えた。


「記憶が重すぎるのです。忘れることができない苦しみに、押しつぶされそうです」


「愛する者を失った痛みが、時と共に薄れてくれません」


「憎しみも怒りも、すべてが生々しく残り続けるのです」


霧姫は静かに聞いていた。そして、深い思索の後、こう言った。


「記憶は確かに人を苦しめている。しかし、記憶がなければ、人は人たり得ない」


人々は困惑した。


「愛も、学びも、成長も、すべて記憶の上に成り立っている。記憶を失えば、あなたたちは獣と変わらなくなる」


「では、どうすれば」


「バランスが必要なのだ」


霧姫はそう悟った。大切な記憶は残し、苦しい記憶は和らげる。時と共に薄れていく記憶と、永遠に残る記憶。その選別を行う存在が必要だった。


■狐神の創造


霧姫は、己の力の半分を割いて、一体の生命を創造することにした。


七日七晩、霧姫は祈り続けた。自らの髪を一房切り取り、それを核として命を紡いでいく。月の光を浴びせ、星の露を振りかけ、大地の力を注ぎ込む。


そして八日目の朝――


銀色の毛並みを持つ、美しい九尾の狐が生まれた。


その姿は神々しく、月光を纏っているかのようだった。九つの尾は、それぞれが独立して動き、まるで生きているかのよう。瞳は、金と紫が混じり合った不思議な色をしていた。


「汝に、人の記憶を司る力を与える」


霧姫は厳かに告げた。手にした宝珠から、一筋の光が狐に注がれる。


「大切な記憶は守り、苦しい記憶は癒せ。人々が記憶と共に生きられるよう、導くのだ」


狐神は深く頭を下げた。


「御意のままに、霧姫様」


その声は、男とも女ともつかない、中性的な響きを持っていた。風のように優しく、水のように清らか。


「汝の名は、ミカゲとする。御影――神の影にして、人の影。その間に立つ者」


「ミカゲ、謹んでその名を受けまする」


霧姫は続けた。


「だが、覚えておけ。力には責任が伴う。人の記憶を司るということは、その人生に深く関わるということ。決して、その重みを忘れてはならぬ」


「心得ております」


こうして、記憶を司る狐神ミカゲが誕生した。

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