第6話 風見柊介との出会い
市場へ向かう途中、写真館の縁側に座る人影があった。
風見柊介——村で唯一の科学者にして民俗学者。七十代半ばの彼は、眼鏡の奥の鋭い目でじっと井戸の方角を見つめていた。白衣の上に羽織った和服が、西洋と東洋の知恵を兼ね備えた姿勢を象徴しているようだ。最新型のデジタル測定器と伝統的な和紙の記録ノートが、奇妙な対比を成していた。
チヨが近づくと、柊介は顔を上げた。
「ああ、チヨさん。ちょうど良かった。今朝から井戸周辺の霧の組成が変化している。あなたにも見てもらいたいデータがあるんだ」
柊介は愛用の手帳を開いて見せた。そこには霧の密度、温度、湿度などが細かく記録されている。入念な観測記録と、それを解析した図表までもが、几帳面な筆跡で記されていた。小型のノートパソコンも傍らに置かれ、画面には複雑なグラフが表示されていた。
「特に気になるのは、霧の中に含まれる『記憶粒子』の濃度だ。通常の三倍以上の数値を示している」
「記憶粒子?」
「私の仮説では、霧は単なる水蒸気ではなく、この村の集合的記憶を物質化したものだ。そして今、その記憶が何らかの理由で活性化している」
柊介は眼鏡を押し上げながら説明を続けた。彼の目には科学者特有の冷静さの中に、どこか神秘的なものへの畏敬の念も宿っていた。
「巫女であるあなたには、私たち科学者とは違う方法でこの現象が見えているはずだ。最近の量子力学研究では、観測者の意識と物質の相互作用が提唱されているが、あなたの『魂写機』はまさにその原理に近いのではないだろうか」
チヨは頷き、魂写機を構えて井戸の方向にレンズを向けた。ファインダー越しに見える光景に、思わず息を呑む。
井戸の上空に、巨大な渦が形成されていた。それは通常の霧とは明らかに異なる、紫がかった不気味な色をしている。渦の中心からは、黒い影が時折覗き、まるで何かが出てこようとしているかのように。そして影の形は、まぎれもなく九つの尾を持つ狐の姿だった。
「これは...」
「やはり、あなたには見えるのか」
柊介が興味深そうに覗き込む。チヨは彼に軽く頷くと、言葉を交わす代わりに魂写機で井戸の渦巻く霧を撮影した。シャッター音が静かな朝に響き渡る。その音は、科学と神秘が交錯する一瞬を切り取った。
「封印が…影響を受けているのね」
チヨは思わず呟いた。風見柊介は彼女の言葉に真剣な表情で頷くと、自身の測定器に目を落とし、複雑な数値が乱れるのを確認していた。
「この現象が、村にどのような影響を及ぼすか…」柊介は顔を上げ、チヨを見つめた。「私は、この『記憶の活性化』が村の未来にとって、決して良い兆候ではないと見ています」
チヨは彼に頷き、そして決意を新たにした。彼女の使命が、科学的な裏付けを得たかのようだった。
「そうね。私もそう思います。早く、手を打たなければ」