第55話 見える世界の最後の朝
わたしは、世界の光を閉じた。 まぶしさも、炎のあたたかさも、 あなたの背中に射す陽だまりも。
もう、見えない。 でも、あのぬくもりだけは―― どんな闇の中でも消えなかった。
火は浄化と再生の証古きを焼きて新しきを生む香りは消えども魂の熱は永遠に愛する者へと届かん——『霧姫伝説・火の章』より
■見える世界の最後の朝
1994年5月21日、午前3時30分。
チヨは暗闇の中で目を覚ました。今日で視覚を失う。この世界を「見る」最後の日。窓から差し込む月明かりを、じっと見つめた。
モノクロームの世界。色彩を失ってから、すべてが白と黒の濃淡で表現される。でも、その分、光と影のコントラストが美しく感じられるようになった。
月光が作り出す影の形、カーテンの隙間から漏れる光の筋、部屋の中に生まれる明暗の階調。すべてが、墨絵のような美しさを持っている。
起き上がって、部屋を見回す。壁に飾られた家族写真、本棚、幼い頃から使っている机。すべてを目に焼き付けておきたい。
一枚一枚の写真に近づいて、じっくりと見つめる。
両親の結婚写真。父の誇らしげな表情、母の幸せそうな微笑み。モノクロでも、その温かさは伝わってくる。
自分とルカの成長記録。赤ん坊の頃、よちよち歩きの頃、小学校入学の日。すべての瞬間が、ここに刻まれている。
そして、最近の写真。健司と三人で撮った、最後の——
「これが、見納めなのね」
声は出ない。でも、心の中で呟く。
棚の上の写真に目を留める。両親と幼い自分、そして赤ん坊のルカ。父の優しい笑顔、母の慈愛に満ちた表情。モノクロでも、その温かさは伝わってくる。
手に取ろうとして、触覚がないことを改めて実感する。写真立ての重さも、ガラスの冷たさも感じない。ただ、そこにあることだけが分かる。
でも、目で見ることはできる。今はまだ。
■ルカの寝顔
隣の部屋から、ルカの寝息が聞こえてくるような気がした。もちろん、音は聞こえない。でも、空気の振動と生命の熱で、妹の存在を感じる。
そっと部屋を覗く。
月明かりに照らされたルカの寝顔。十五歳の妹は、あどけない表情で眠っている。
少し開いた唇。規則正しい呼吸で、胸が上下している。
長いまつげ。瞼がかすかに動いて、夢を見ているのが分かる。
頬に散らばった髪。黒髪が枕に広がって、まるで夜の川のよう。
布団から出た手。まだ少女の手だが、最近は少し大人びてきた。
すべてを、心のフィルムに焼き付ける。
この顔を、もう二度と見ることはできない。明日の朝には、永遠の暗闇に包まれる。
「ルカ……」
名前を呼びたいが、声は出ない。ただ、見つめることしかできない。
妹の寝顔を見ていると、小さい頃の思い出が蘇ってくる。
生まれたばかりの赤ん坊だったルカ。初めて抱いた時の、あの小ささと軽さ。
初めて笑った日。歯のない口を大きく開けて、声を上げて笑った。
初めて「ちよねーちゃん」と呼んでくれた日。舌足らずな発音が、たまらなく愛おしかった。
すべての記憶に、ルカの顔がある。そして、もうすぐそれも見えなくなる。
涙が頬を伝った。触覚がないから、涙の感触は分からない。でも、視界が滲むのは分かる。
■最後の朝食作り
階下に降りて、無意識に朝食の準備を始める。そして気づく。
もう味も分からない、触覚もない。でも、ルカと一緒に何かをすることが、とても大切に感じられる。
台所の風景を、ゆっくりと見回す。
年季の入った冷蔵庫。扉に貼られた、ルカの描いた絵。
使い込まれたまな板。無数の傷跡が、長年の使用を物語っている。
母から受け継いだ鍋。底が少し焦げているが、それも思い出の一部。
窓辺の小さな鉢植え。ルカが学校から持ち帰った朝顔が、今朝も咲いている——色は分からないが。
すべてが、日常の一部。そして、その日常を作ってきた場所。
朝日が差し込んできた。
東の窓から、眩しい光が台所を満たしていく。逆光になった調理器具たちが、シルエットとなって浮かび上がる。
光と影のコントラスト。それは、この世界の美しさの本質かもしれない。




