第53話 触れられない苦しみ
夕方、チヨは一人で苦悩していた。
もう、誰にも触れられない。ルカを抱きしめることも、健司の手を握ることも。
そして、料理の味も分からない。作ることはできても、味見ができない。
世界から、温もりが消えた。
でも——
健司とルカの命の風は、変わらず自分を包んでいる。触れなくても、その存在は確かに感じられる。
『大丈夫?』
健司が心配そうに尋ねてくる——地面に書いた文字で。
『大丈夫じゃない。でも、大丈夫』
矛盾した答え。でも、それが本心だった。
辛い。でも、二人がいるから大丈夫。
■健司の苦悩
夕食後、健司が真剣な話を始めた。
『医学的に、君の状態を調べてみた』
地面に大きく文字を書く。
『感覚を失うということは、生命の危険と隣り合わせということ。でも、君は別の感覚で補っている』
『それは奇跡だ。医学では説明できない』
健司の苦悩が、風となって伝わってくる。
医師として、彼女を救いたい。でも、できない。その無力感。
『でも、必ず方法を見つける』
彼の決意は変わらない。
『君を、元に戻す方法を』
それは不可能だと、チヨは知っている。でも、その想いが嬉しかった。
■新しい世界の発見
その夜、チヨは一人で大地の記憶を探索した。
触覚はないが、大地と繋がっている感覚はある。それは、新しい知覚の形。
家の下には、もっと古い記憶があった。
この土地に最初に家を建てた人々。井戸を掘り、基礎を作り、柱を立てた。その時の希望と不安。
さらに深く。
縄文時代の土器の破片。ここで暮らしていた古代の人々の記憶。狩りをし、土器を作り、祈りを捧げた。
すべての記憶が、層となって重なっている。
そして気づく。
記憶は消えない。形を変えても、必ず残る。大地が、すべてを記憶している。
■巫女の系譜
ふと、ある記憶に引き寄せられた。
白装束の女性たちが、円を作って祈っている。歴代の巫女たちだ。
皆、同じ運命を辿った。感覚を失い、最後には消えていった。
でも、その記憶は確かにここにある。
彼女たちの想い、願い、愛。すべてが大地に刻まれている。
自分も、いずれはこの記憶の一部となる。
それは、悲しいことではないのかもしれない。永遠に、この地を守る存在となるのだから。




