第50話 健司との別れの予感
健司が迎えに来た時、彼の表情は今までになく深刻だった。
『おはよう』
手話での挨拶も、どこか重い。
『チヨ、今日は特に気をつけて』
『どうしたの?』
『昨夜、医学書を調べていて気づいたんだ』
健司は続けた。
『触覚を失うということは、体の危険信号も感じなくなるということ。痛みも、熱さも、冷たさも分からなくなる』
確かに、それは危険だった。怪我をしても気づかない、火傷をしても分からない。
『だから、今日は絶対に離れない』
健司の決意が、風となって伝わってくる。守りたいという強い想い。
チヨは頷いた。この人の優しさに、最後まで甘えよう。
■神楽殿への道
神楽殿への道は、村の中でも特に古い道だった。石畳が所々崩れ、雑草が生い茂っている。
歩きながら、チヨは足の裏の感触を味わった。
固い石、柔らかい土、湿った苔。一歩一歩が、大地との最後の対話。
ルカが手を繋いできた。
小さくて温かい手。少し汗ばんでいて、でもしっかりと握ってくれている。
『チヨ姉ちゃんの手、冷たい』
『緊張してるのかも』
『大丈夫。私がずっと握ってるから』
妹の優しさが、心に染みる。
途中、小川を渡った。靴を脱いで、素足で水に入る。
冷たい水の感触が、足を包む。小石のごつごつした感じ、水の流れる抵抗感。川底の砂が、足の指の間を通り抜けていく。
『気持ちいい?』
健司が尋ねる。
『最高に気持ちいい』
それは本当だった。この冷たさも、今日で感じられなくなる。だからこそ、一つ一つの感覚が貴重だった。
■最後の自然との触れ合い
山道の途中で、大きな桜の木があった。もう花の季節は過ぎているが、幹は太く、生命力に満ちていた。
チヨは立ち止まり、幹に手を当てた。
ざらざらとした樹皮の感触。でこぼこした表面、ところどころ滑らかな部分。そして、かすかに感じる木の脈動。
『どうしたの?』
『この木の感触を、覚えておきたくて』
健司とルカも、一緒に木に触れた。三人で大きな桜の木を囲むように立つ。
『あったかい』
ルカが言った。
『木って、生きてるんだね』
そう、生きている。大地から水を吸い上げ、太陽に向かって枝を伸ばし、何百年も生き続けている。
チヨは木に頬を寄せた。ざらざらした感触が、頬に心地よい。
これが、自然に触れる最後の機会。




