第47話 静寂の朝
大地は覚えている。 すべての足跡を、すべての祈りを。
わたしの手は、もう土に触れられない。 でも、この地に刻まれた記憶は消えない。
ルカ、あなたが歩くたび、 わたしもそこにいる。
見えなくても、触れなくても、大地がわたしたちを繋いでいる。
大地は記憶の守り手
すべての命を育みて味わうことなきとも
愛の味は心に宿り永遠に消えることなし
——『霧姫伝説・土の章』より
■静寂の朝
1994年5月20日、午前4時。
チヨは無音の世界で目を覚ました。振動式目覚まし時計が規則正しく震えている。窓の外はまだ暗いが、東の空がかすかに白み始めていた。
昨日失った嗅覚。もう料理の香りも、花の匂いも感じられない。でも、風が見えるようになった。感情の風、想いの風。失うものがあれば、得るものもある——それが巫女の道。
今日は土の欠片を手に入れる日。シロミカゲの言葉通りなら、触覚と味覚を同時に失うことになる。
手を見つめる。この手で、もう何も触れられなくなる。ルカを抱きしめることも、健司の手を握ることも、できなくなる。
立ち上がって、部屋の中を歩き回る。足の裏に伝わる床の感触、畳の心地よい硬さ、廊下の冷たさ。すべてが愛おしい。
台所に立ち、朝食の準備を始める。包丁の重み、食材の感触。これらを頼りに、丁寧に料理を進める。
「今日こそ、最後かもしれない」
声に出そうとして、出ないことを改めて実感する。でも、心の中でつぶやきながら、特別な朝食を作ることにした。




