第42話 嗅覚の喪失と新たな能力
クロミカゲが去った後、チヨは改めて風の欠片に手を伸ばした。
指先が結晶に触れた瞬間——
世界から、香りが消えた。
完全に、すべての匂いが失われた。
もう、花の香りも、料理の匂いも、雨上がりの土の匂いも感じられない。健司の使っている石鹸の香りも、ルカの好きなジャスミンのシャンプーの匂いも。
世界から、また一つ感覚が消えた。
鼻で息をしても、ただ空気が出入りするだけ。そこに香りという情報は含まれていない。
でも同時に、新しい感覚が芽生えた。
■風が見える
風の流れが、目に見えるようになったのだ。
いや、「見える」というのは正確ではない。色も形もない。でも、確かに風の存在が分かる。
空気の動き、人の息遣い、そして——感情の風。
人の心から発せられる想いが、風となって周囲に広がっているのが見える。
健司からは、温かく優しい風が。心配と愛情に満ちた、春の微風のような。
『大丈夫?』
健司の手話に頷く。
『嗅覚を失いました。でも、風が見えます』
『風が?』
『心の風も』
チヨは健司の頬に手を伸ばした。触れることはできないが、そこから流れる暖かい風を感じる。
温かくて、優しくて、少し切ない風。それは恋する人の風。
『健司さんの想い、温かい風となって伝わってきます』
健司の頬が赤くなった。心の風が、少し乱れる。照れている。
でも、その風は嘘をつかない。真っ直ぐで、純粋な愛の風。




