第41話 記憶の風
風と共に、様々な記憶の香りが流れてくる。
焚き火の煙の匂いと共に、祭りの記憶。
花の香りと共に、結婚式の記憶。
線香の匂いと共に、葬儀の記憶。
すべての記憶に、香りがついている。そして今、最後にそれらを感じることができる。
洞窟の最深部に、祭壇のような場所があった。そこに、緑色に輝く六角形の結晶が置かれていた。
風の欠片。
チヨは深呼吸して、手を伸ばした。
最後に、健司の匂いを胸一杯に吸い込む。石鹸と、かすかな汗と、そして健司だけの優しい匂い。
そして——
■クロミカゲとの対峙
「本当に、それでいいのか?」
低い声が響いた。音は聞こえないはずなのに、その声は直接心に届いた。
振り返ると、黒い狐が立っていた。九つの尾を持つ、クロミカゲ。
その存在からは、硫黄のような匂いが漂っている。破壊と混沌の匂い。
『なぜ邪魔をする』
チヨが手話で問いかけると、クロミカゲは嘲笑うような気配を見せた。
『邪魔?違うな。私は選択肢を与えているのだ』
黒い狐は、ゆっくりと近づいてくる。その動きに合わせて、不快な匂いが強くなる。
『お前は色を失い、声を失い、次は香りを失う。その先に待つのは、完全な孤独だ』
『それでも、村を守るため——』
『村?』クロミカゲが遮った。『村人たちは、既にお前を忘れ始めている。存在しない者のために、なぜ犠牲になる?』
その言葉は、チヨの心に突き刺さった。確かに、村人たちはもう自分を認識できない。
『でも、ルカがいる。健司さんも』
『一時的なものだ。封印が完成すれば、彼らもお前を忘れる』
クロミカゲの瞳が、妖しく光った。
『だが、別の道もある。我に従えば、お前は失ったものを取り戻せる』
誘惑的な提案。一瞬、チヨの心が揺れた。
色も、声も、香りも取り戻せる。普通の人間として、健司と共に生きることができる。
でも——
その時、健司が前に出た。手話で語りかける。
『チヨを惑わすな』
クロミカゲは健司を見た。
『医師か。命を救うのが使命の者が、なぜ彼女の犠牲を止めない?』
『それがチヨの選んだ道だから』
健司の手話は力強かった。
『愛する人の決意を、僕は尊重する。たとえ、それが辛い別れになるとしても』
チヨの胸が熱くなった。健司は、自分の選択を理解してくれている。
『でも』健司は続けた。『必ず方法を見つける。チヨを失わない方法を』
クロミカゲは、しばらく二人を見つめていた。その間、風穴の中には様々な匂いが渦巻いた。希望の花の香り、絶望の灰の匂い、そして愛の甘い香り。
『愚かな……まあいい。後悔しても遅いぞ』
そう言い残して、黒い狐は影のように消えていった。硫黄の匂いも、少しずつ薄れていく。




